わこわこマラソンクラブ

6/18/2011

第16回鯖街道ウルトラマラソン完走レポート

「京は遠くても十八里」
昔の人は、若狭から京への道をこう表現した。
若狭から京都へ至る多くの街道や峠道には、本来それぞれの固有の呼び名があり、近年、運ばれた物資の中で鯖が特に有名になったことから、これらの道を総称して「鯖街道」と呼ぶようになったとのことだ。
そのうち、最も盛んに利用された道は、小浜から上中町の熊川を経由して朽木を通り、京都の出町柳に至る若狭街道ということだが、この中で京への最短距離をとる峠道の針畑峠越えがあり、この道を通り76kmの行程を完走する大会が、この鯖街道ウルトラマラソンである。この道を昔の人のように「遠いように思えるがたった76km」と思うか、逆に「近いように思えるが、遠い76km」と思うか、それは人それぞれだ。
若狭から運ばれた鯖が京に着くころには、ちょうどいい塩加減になったと言われ、京食文化の中に若狭の魚が生きていることがわかる。さあ、私の今回のウルトラ挑戦はどのような塩加減になるか、楽しみだ。
大会の前々日、京都の北、大原に程近い静原の親戚の家に泊めてもらう。10数年前大阪に勤務していたとき、幼少の子供2人を連れてよく遊びにお邪魔していたお宅だ。最近は野生の猪が畑の作物を荒らし、たいそう迷惑しているという。もちろん、猿やカモシカも現れる、そんな自然豊かなところだ。
一泊させていただき昔話に花を咲かせた翌日、ご夫妻の計らいで、車でレースのスタート地点である小浜に送っていただけることとなった。途中、道の駅で名物の鯖寿司を食し満足したおなかを抱え、受付場所であるホテルせくみ屋に向かう。
15時から受付が始まる。14時半にホテルに到着し、待った私は、一番初めに手続きをし、ナンバーカードを受け取った。その番号は339。受け取ったとき頭にひらめいたのは、
「散々苦労する」というごろあわせだ。昨年のハセツネカップでのリタイヤが頭をよぎる。一緒に手続きを待ってくれていた親戚ご夫妻に、「散策のつもりで完走を目指します!」と意識的にごろあわせを伝え、こころをしゃんとさせる。
親戚ご夫妻にお礼を言いお別れし、今日の宿泊先である駅前のビジネスホテルれんが亭にチェックインし、市内観光と明日の朝食の買出しを行う。
小浜市は現在人口32,000人、ここ数年で1万人以上減少したとのことで、町にはなにか元気がない。土曜というのに駅前の商店街は、ほぼ全てのお店にシャッターが下りている。但し、江戸時代は水産業、海運業で栄えた街だけあって寺社仏閣が数多あり、過去の栄華が窺い知れる。
特に私が興味を持った点が2つある。大河ドラマ「江」の主人公の姉、初が嫁いだ京極家が領地として支配したこの小浜の地ということで、亡骸は常高寺に弔われている。
また、全国に人魚伝説でその名を伝える八百比丘尼の入滅の洞も、なにか800年生きたその印象を強く感じる。
鯖街道ウルトラマラソンの始まる朝は3時55分の起床から始まった。勿論Go!Go!の縁起かつぎである。6時のスタート、会場への到着を5時15分とし、準備を進める。昨日用意していた明走会の黄色のTシャツ、黒のスパッツを着、弁当・味噌汁をゆっくり摂った後、チェックアウトし、荷物を預けるため小浜フィッシャーマンズワーフ裏の公園に出向く。既に多くのランナーが終結しており、20度を超える気温の暑さも手伝って、熱気で会場は充満していた。
5時半にスタート地点となるいづみ町商店街の鯖街道起点に移動を開始、15分前に到着。参加者は思い思いにストレッチをしたり、写真を撮ったり、遠い京都の地に向けた行程に思いをふけったりしている。
ただ、おそらく多くのランナーは、昨日報じられていた今日の天気予報のことで気を揉んでいたと思う。勿論私もその一人だ。空は低いところにいぶし銀色の雲をまとい、先々の雨模様を予想される。
スタートのカウントダウンが始まる。1分前、そしてなんの前触れもなくいきなりピストルによる号砲、そして約400名の「本鯖」ランナーがスタートした。本鯖とは、76kmの小浜~京都のフルの区間を走る人を言い、梅ノ木から始まる42kmのハーフである「半鯖」と区別してこう呼ぶ。
小浜の街を離れ、遠敷(おにゅう)を経て東小浜駅に到着、6:30。
東大寺二月堂のお水取りで、その水の送り元と言われる鵜の瀬を6:55に過ぎる。ここから地中水脈を通じて二月堂まで水が通じているという話もわかるような、なんとも風情のある瀬だ。
7:01に第一エイド9.4km地点、下根来に到着。まだ雨は降ってこない。どうか降らないでくれ、そう思いつつ水分を補給する。10名ほどのボランティア皆さんの献身的なサポートに感謝しつつ、ここから始まる急激な登りに備える。
道にはあちらこちらに「みず」と書かれた標識があり、天然の水が常時流れている。飲まなかったがたいそう冷たくうまいことだろう。
舗装路を淡々と登っていき、たどり着いたのが15km地点上根来エイド。7:45到着。標高は345mだ。
トイレを済ませ、水分を補給し、鯖街道の本格的な登山道に到着。7:55。
8時を少し過ぎた頃、ざーっと雨が降り始める。ぽつぽつではない本格的な降りとなった。
根来坂峠エイド18.5kmには8:20到着、続いて8:40に根来坂峠に至る。19.6km地点、8:40。標高875m。ここから急激な山道の下りとなる。私の前を走るランナーが踏みしめた道はぬかるみ走りにくい。苦しいこれからの道のりを予想する瞬間だった。
9:21百里小屋エイドに到着、27km地点、標高450m。雨はどしゃぶりだ。雨のときは絹の靴下(夏木マリではない)である水はけの良いコクーンソックスを穿くが、今回は長い距離に備えてCEPのハイソックスでふくらはぎの筋肉を守ることにした。そんなわけで、シューズの中は水はけが悪く、じゃぶじゃぶとしながら走ることになった。
このエイドでは井戸からくみ上げた美味しい水とそうめん2杯、きゅうりを頂き、お礼のことばをスタッフの皆さんにお伝えし、エイドをあとにした。
ここから次のエイドまではだらだらとした舗装路の下り基調が続く。ピッチを刻み、いいペースで進めている。
10:22第4エイドの山本商店に到着。36km地点。36kmを4時間22分は、出来すぎだ。あまり頑張って走りすぎずに後半足がもつ様にじっくり走ろう。ここでは飲み物とオレンジを頂き、すぐスタートした。
川合の関門(38km地点)は11:30だったが、雨がひどく、どこが関門だか分からないうちに過ぎていた。
第5エイド41km地点の九多には10:55到着、標高385m。ここではおにぎりが1個いただける貴重な地点だ。ありがたくおにぎりを頂き、バナナと梅干を頂き、水分を補給したらおなかが痛くなった。きっと雨に打たれて体温が下がり、おなかが冷えたのだろう。トイレに駆け込むも2人の待ちがあり、ここで10数分の時間をロスした。残念だが仕方ない。これもレースの内だ。
ここからオグロ坂峠までは山道の急激な登りとなる。途中木が倒れていたり、道が崩れていたりと気がめいるが、それ以上に困ったのが大雨による体温の低下だ。昨年から使っているノースフェイスの撥水性能が一番高いゴアテックスの雨具を使っているが、どうしても走っていると首筋から雨が吹き込み、更には雨具の中で蒸発した水蒸気が外気に冷やされて冷たくなり体から熱を奪い、走りに影響を与えるようになってきた。なんとか止まないものか、雨よ。
2:08には第6エイド八丁平到着。46.8km地点、標高870m。この手前に京都では珍しい湿原が広がっていた。このエイドでは関西名物ひやしあめを堪能する。あまさが程よい。雨もあがってきた。よし、気合を入れよう。 12:52第7エイド大見到着、52km地点。ここではエイドでめずらしいコーヒー牛乳を頂く。あまくてこってりしていてこれがまたうまい。
13:45、第8エイド杉峠到着、56.8km地点。標高850m。大見からぐっと200mほど登っていたが、ここを境に京都まで下りとなる。やっと来た、感慨深くそんなことを考えた。
すると、ボランティアの方が、「琵琶湖が見えますよ」と言われ、指差された方角のはるか先に湖の姿を確認できた。
このエイドではそうめんを2杯頂く。つけ汁のしょっぱさがいい。走って塩分が抜けた体にしみこむ感じだ。
ここから舗装路の急激なくだりとなる。何度か走った事のあるランナーの方に伺うと、「今まで足を使ってしまった人には堪える下りだよ。」とのこと。確かに峠の下りで太ももの前側の筋肉を使っているので、かなり負担となる。私は出来るだけ小またで、しかもできるだけ負担を少なくするよう、着地で強く足をつかない様工夫して走り降りて行った。
この舗装路はかなり交通量も多く、道のへりを走らないと車とぶつかる危険性があるため、注意して走る事にした。
それにしても下りでがんがん飛ばしていく人の多いこと。私を抜いていくそういう人たちを横目に見ながら私は、左太もも前の筋肉の痛みを感じながら、だましだまし歩を進めていった。
14時半に鞍馬の古い町並みが見えてきた。もうすぐエイドだ。鞍馬寺を過ぎるとすぐにエイドが見えてきた。
14:38第9エイド鞍馬到着、63.6km地点。標高275m。7kmで600m弱下りてきた勘定だ。激しく下ってきた道を振り返る。ここではグレープフルーツを2切れ頂く。すっぱさと甘さがとても心地よい。美味しい。
14:40鞍馬駅でトイレを借りて次のエイドに向けてスタートする。
15時丁度に第10エイドの市原に到着、66.7km地点。ここの関門閉鎖は16:30だ。余裕を持って関門をクリアする。バナナ、パンと飲み物を頂いた。ここでは静原の親戚ご夫婦が雨降りの中、長いこと私を待ってくれていたとのこと。感謝!
エイドで手伝う子供たちの頑張ってくださいの声を背に受け、ゴールに向けた最後の旅路につく。加茂川沿いに緩やかに下る舗装路をたんたんと進んでいく。ここらあたりでは歩いている参加者も多く、更には、半鯖(42km)に出たランナーもいて、私は㌔6分程度のスローペースでありながら、かなり多くのランナーを抜きながら、前へ前へ進んでいく。
最後のエイドとなる西加茂橋南エイド71.5km地点には15:30到着。あと4.5kmだ。こうなると少し欲が出てくる。ウルトラマラソンでは「サブ10」という言葉がある。100kmを10時間以内で走ることだが、これは富士登山競走(頂上コース)時間内完走、フルマラソンサブスリー(3時間以内完走)とあわせて3つ達成すると、「トリプルクラウン」という称号がもらえるようなすごい記録と言われる。そのうちのひとつの記録、形は違えど、サブ10をこの本鯖76kmで出来ないかと思い始めた。
ところが、自分の気持とは裏腹に脚が前に出ない。この4.5kmはとても長く感じた。鞍馬であった別のランナーからは、「昨年も走ったんですが、鞍馬の下りを下った脚は、平地である加茂川沿いの平らな道に来るとなぜか脚がつるんですよね」と言われた。幸い私は脚がつることはなかったが、脚は前に出ないのだった。
時間は刻々と過ぎていく。最後のエイドからいくつの橋の下を通り過ぎたろう。最後の橋の左手から上り、橋を左側から右側に渡り、走路誘導の方から「あと1kmないよ」と言われ時計を見るも、そこには15:57の文字が。
ゴールが見えてきた。あと200mだ。遠くからエントリーしたときに書いたメッセージがスピーカーを通して聞こえてきた。
「埼玉県から来た森田さん。震災に対し何か出来ることはないかないかと始めたのがRUN×20(1km走るごとに20円募金すること)。ランナーとして出来ることを小さなことから少しずつ」。
さあ、ゴールだ。やっと帰ってきた。すでにゴールしたランナー、その関係者、そして大変お世話になった大会関係者の皆さんが待つゴールに到着した。10:01:30。
残念ながら10時間切りはならなかったが、自分の中ではやりきったという気持が大きく膨らんでいった。大雨、累計標高差2000m強の山道、練習不足の体の状態で、やるだけのことはやったと思う。これが出来たのも大雨が降る中、私達ランナーをサポートしていただいたボランティアの皆さん、大会関係者の皆さん、応援してくれた親戚のご夫婦、そしてレースに送り出してくれた家族がいたからこそだ。心から感謝する。
ゴールラインを通過するや否や、ゴールタイムがかかれたメモを渡され、完走賞である焼き鯖とアノラックを頂き、すかさず準備されたスタート時に預けた荷物を受け取り、汗をぬぐったあと、先ほどのメモを記録証の係の方にお渡しし記録証を作成してもらい、そのあと豚汁でおなかを満たしてゴール地点をあとにした。
記録証の係の方から頂いた銭湯入浴券を握りしめ、レース後の重たいからだで重たい荷物を持ちながら、600m先の東山湯を目指す。
汗を流し、少しふくらはぎのマッサージをしながら湯船に浸かり、体をリセットして帰途に着いた。
バスで百万遍から京都に出て、ビール2本とお弁当を買い、18:16発のぞみの車窓の人となり、22時に自宅に到着、無事に今回の旅は終わった。
ウルトラマラソンは自分の脚だけで進む旅、と私のウルトラの師匠、夜久弘さんは言う。
昔の人は自分の脚で長い距離を歩き、目的地まで到着した。ウルトラマラソンはレースという意味合いより、1日(あるいは超ウルトラの場合はそれ以上)かけて目的地まで到達するその道程を楽しむことがウルトラの醍醐味ではないかと最近思う。これからもウルトラが走れる体つくり、こころつくりをしながら、この長い距離・時間を楽しんでいきたい。
以上。

知多半島一周ウルトラ遠足(とおあし)完走レポート
































「これからは僕のことを金メダリストの夜久と呼んで下さいね。」
3月のとある日、私が尊敬するウルトラの師匠である夜久さんの事務所をふらりと訪れた際、ご本人からこう言われた。
私が、「どうしてですか?」と伺うと、夜久さんは、
「いやー、実は4月末に行なわれる知多半島一周ウルトラ遠足というレースがあってね、それに出た人には全て名入りの金メダルがもらえるんだよ。だから僕は金メダリストというわけですよ。森田さんも金メダリストにならない?」
この言葉を聞いてからこの大会のことが気になっていた。しかし、その前に行なわれる鶴沼ウルトラマラソン100kmもあるし、GWに出たかった川の道フットレース520kmを断念してまでエントリーしたウルトラトレイルマウントフジ(UTMF)160kmも5月にあるし、今年は行けないなあ・・・と考えていた。
しかし、3月11日、あの東北大震災のあと、エントリーしていた3月21日の多摩リバーサイド駅伝、4月3日の鶴沼ウルトラマラソン、5月20-22日のUTMFが全て中止、延期となり、目標が無くなった為、練習もせず、ぼーっとした日々を送っていた。
たまたまランナー仲間から送られてきたRUN×10(ランバイテン、1km走る毎に10円被災地に寄付するというもの)をまねて、RUN×20を始めて気持が前向きになってきた。
そして、そのとき思ったのが、どこか今からでもエントリーできる大会はないかということで思い出したのがこの知多半島一周ウルトラ遠足だった。
早速ランネットでエントリー。レース翌日の月曜に出社の必要があるため、当日中に自宅に帰宅できるよう80kmの部にエントリーした。エントリー代8000円也。
とてつもない安さだ。ちなみに、100kmの部は9000円、70kmの部は7000円と普通のウルトラの半分程度のエントリー代だ。その上、名入り完走金メダル付き!
3月末の決算、そして4月の期初の忙しさはあったが、先に述べたRUN×20とこのレースへの準備ということで走りに賭ける気持も強くなってきた。そして距離を積んで当日を迎えることとなった。
4月23日土曜日、すこし早めに家を出た私は名古屋の得意先を訪問した後、名鉄名古屋から電車を乗り継いで知多半島の根元にある常滑駅に15時過ぎに着いた。改札を左手に出て、線路沿いに左手に進み、徒歩3分のところにある、じゃらんネットで予約したホテルルートイン常滑駅前にチェックインする。私の前にもランナーらしき人が2人歩いていたので、おそらく多くの大会参加者がこのレースに出るため宿泊しているのだろう。
部屋に荷物を入れてすぐに、エントリー会場であるホテルAUに向かう。駅の正反対側にある会場まで5分、街の雰囲気を噛み締めながら歩いていく。左手にはINAXの大きなビルが聳え立っている。名古屋から特急で35分ほどの距離だが、都会の喧騒は無く、静かなたたずまいだ。
3時半前にホテルAU内に設置されたエントリー場所で名前を告げ、ゼッケンを頂く。ゼッケンには「貴方の情熱と栄光を称えます、第5回知多半島一周ウルトラ遠足」という文字と、青で「10」というナンバーが記載されている。80kmの部は何人がエントリーしているのか不明だが、きっと少ないと思われる。
全ての競技にエントリーした参加者は380人ほどとマイナーな感じは否めない。一方でエントリーする一人ひとりに名前を呼んで声をかけてくれるその温かさに何か良い感じを受ける。参加賞のTシャツを頂き、ホテルのソファーで一服する。その後、既にこのホテルにチェックインしている夜久さんに連絡し、明日のレースのことや近況について話していたら17時となり、ウェルカムパーティを兼ねたレース&コース説明会が行なわれることとなった。
大会委員長の川崎五郎さんが会場であるホテルのビュッフェに現れ、大まかなコースの説明と注意点の報告がなされた。会場には100名弱の参加者が集まっていたが、顔見知りだったのは日医ジョガーズの小嵐先生くらいだけだった。普段ウルトラの大会に出向くと、顔見知りに出くわすことも多いのだが、今回は違っていた。きっと今まで出てきた大会とは違った様相の大会なのかも知れない、そう思った。
よくサロマ湖ウルトラマラソンは「ウルトラの小学校一年生」などと呼ばれ、人気も参加者も走り易さも含めてこういった呼称が使われることもあるが、この大会は実行委員会のパンフを見ると「耐久ウルトラの登竜門」と記載されており、サロマ湖が小学校一年生ならこちらは「ウルトラの幼稚園」といった感じだろうか。これにはなんといっても100km、80km、70kmとも17時間というウルトラで最も長い制限時間を設けており、ほとんど歩いていてもなんとかゴールできる、そんなゆるいレースに仕上がっている。ちなみに50km、40kmの部もあり、こちらも12時間という非常にゆるい制限時間となっている。フルマラソンやミニウルトラマラソンに挑戦するのにも良い機会となる大会となっている。
ウェルカムパーティは1時間弱で終わり、夜久さんと私は、明日に備えてきちんと食事を摂ろうと常滑の街に繰り出した。といっても駅の周りには飲食店もほとんどなく途方にくれていたところ、たまたま駅前でお話されていた地元の方にこの近くで地元の美味しいものが食べられる居酒屋さんはないですかと尋ねたところ、「ああ、おれが毎日行っている古窯庵という店が近くにあるから行ってみな、旨いよ。店に行ったらしんちゃんの紹介だといってよ。」とのこと。駅から徒歩3分ほどのところにある古窯庵さんに到着。6時少し過ぎたところでまだお客さんはまばらだったが、雰囲気の良い清潔な店内、元気のいい従業員さん、そして気風のよさげな大将で期待は膨らむ。
「しんちゃんの紹介で来ました。」と大将にお伝えしたところ、「ああ、いつも来ていただいているんですよ。飲みに来ない日も毎日。新聞を配達していただいているんです。」とのこと。出てきた料理は確かに美味しく、ジョッキに注がれたビールもどんどん美味しく飲めて行ってしまったが、明日のレースのことを思い、2杯で止めた。最後に仕上げのおにぎりを頂き、おなか一杯になりおあいそしようと思ったら、夜久さんにご馳走してもらってしまった。感謝!
ちなみに、古窯ということばは、日本6大古窯のひとつ、常滑焼からとったとのこと。勉強になる。
夜久さんと明日の健闘を称えわかれた後、駅下にあるスーパーで、明日の朝食となる弁当と味噌汁を購入し、ホテルに戻り、明日着るTシャツにナンバーカードを安全ピンで取り付け、身に付けるものの最終点検をして10時過ぎにベッドに入った。レース前はいつもなら1時間くらい眠れず、寝返りを何度もうってやっと眠れるのですが、今回はすぅーっと眠れた。
朝3:55にかけた目覚ましで起床。ここのところこだわっている55=Go,Go!の縁起を担いでこの時間に起きる。弁当と味噌汁を食べ、歯を磨いた後、身支度を始める。体の摩擦から皮膚を守るプロテクト1をわき腹、肩、足に擦り込み、乳首にはバンドエイドを貼り、長時間にわたるレースから身を守る手はずを整える。
マラソンキャップの下に帽子ネックウォーマーにもなるマジックキャップを首筋に垂らし太陽光から首筋を守る工夫をした。Tシャツは明走会の蛍光黄色の速乾性のもの、そしてアシックスのスパッツとCEPのハイソックスで足元を固め、更には前日まで穿くのをどうしようかと思案していたNEWTONのアイザックに足を入れた。このシューズはフォアフットで走るもので、初めてのレースは昨年のつくばマラソンだったが、ある程度の筋力を要求するシューズのようで、レースは惨敗であった。それではなぜ今回、このシューズを選択したのか?ウルトラ用に購入したアシックスGELカヤノ16は重く、クッション性は良く脚へのダメージは少ないと思われたが、如何せんこの重さが災いすると思ったのだ。もう一足の候補はアディダスのアディゼロAge2。これは至って軽いが、30km以上走って試したことがなく、候補から外れた。最後に残ったのがニュートン。このアイザックはLSDトレーニング用に作られたもので長い距離をゆっくり走るのには向いている。また、うまく使えば自分の走力を増してくれる、そんなシューズだ。
スタートは5時。その地点のホテルAUに向けて4:30にチェックアウトする。もちろんまだ夜は明けていない。ホテルのロビーで夜久さん、小嵐さんと会い、お互いの完走を祈念する。4:55に出走者全員がホテルを出て信号を渡り、今年のスタート地点に三々五々集結する。いつもながら思うのは、ウルトラに参加する人のたたずまいは、なぜか哲学者のような雰囲気が漂うということだ。泰然自若というか、ぎらぎらした「勝ってやろう」的な雰囲気をかもし出す人は極少数だ。それぞれがこれから始まる長丁場のことを思い、心を平静にしてスタートの時を待つ。
5:00スタート。15kmまで先導する先導車に付いて行くかのようなスパートをする人は少なく、皆それぞれのスピードで出発する。常滑競艇場の裏側を通り、一路海岸線に向けて南に進路をとる。県道252号線を南下し、3km地点あたりから右手に海を見ながら歩を進めていく。漆黒からブルーモーメント(朝と晩、太陽が上がる前と沈んだ直後の5分間、空がブルーに彩られる時間を言う)、そして夜明け前の時間を使い、南下をしていく。途中、ソニーの元社長の盛田さんの実家の、あの日本酒「ねのひ」で有名な造り酒屋盛田の工場やレストランを通り過ぎる。平坦な道を淡々と走る。
脚は別段問題はないが、トイレにどうしても行きたくなってきた。9kmの坂井海水浴場に公衆トイレがあると聞いたが、そこまで間に合いそうにない。また、地図も持たず、コース上に距離表示もないためここがどこなのかわからず、走るスピードを極端にゆっくりさせながら、コース近くにあるトイレを探す。と、8km地点くらいのところ左手に、海産物の産直販売コーナーの便所が見つかり、なんとかセーフ。
10km地点、最初のエイドには5:59到着、スポーツドリンクを1杯頂き、即スタートする。走り始めて1時間、体は温まってきたが、外気温はまだ低く、止まると寒さを感じる。今回も出来るだけエイドに長居しないというのが作戦だ。3分以内にエイドを出ることで、体に休み癖をつけさせないで最後までコンスタントに走るという形をとり、9時間以内でゴールするというものだ。
10km地点から300mほど走り、上野間の交差点を左折し、国道247号線に出る。ここからは折り返し地点までひたすらまっすぐだ。海沿いから内陸に入り、まったいらな道を7kmほど進むと、富具崎港を過ぎ、海のそばに聳え立つ野間の灯台に到達する。海沿いの道を進むため、若干の上り下りと前方あるいは右手からの強い海風に悪戦苦闘する。
第二エイド20km地点には7:01に到着。10km/1時間という理想のペースで進んでいる。ここでは給食にバナナ、いなりずしなどがあったが、何も頂かずスポーツドリンクを2杯飲み、即出発した。
小野浦は聖書和訳の地という碑が道中にあったのを見てWEBで調べると、小野浦出身の音吉、久吉、岩吉という3人が廻船で途中難破し、14ヶ月の漂流の後、米国に流れ着き、インディアンに助けられた後、イギリス人によってロンドンに連れて行かれ、日本との開国の交渉に3人を使おうと思ったが本国は日本との交渉に熱心ではなかったため、マカオに送られ、そこで聖書の日本語訳をすることになったとのこと。ちなみに、3人は米国人の計らいで日本に帰国を果たそうとするが、浦賀沖に到着したときに日本からの砲撃にあい、止む無くマカオに引き返すことになったとのこと。
第3エイドは25km地点。7:24到着。体の調子はいい。このまま淡々と進もう。山海海水浴場、豊浜漁港を過ぎ、豊浜港をぐるっと廻り、南知多温泉、そして知多半島の最南端の町、師崎を過ぎる。
8:24に第4エイドに到着、35km地点。バナナ、チョコ、おにぎりがあったが、お茶を頂き、2本携帯しているペットボトルの1本にお茶を補給してスタートする。
ここから5kmは風が今までで最も強いところだった。日差しは強くなっており、気温も高くなっているが、風が強く、肌寒い感じがする。汗はすぐ乾き、塩が体から奪われている感じだ。
第5エイド40km地点には8:56到着。ここまでかかった時間は3:56。40kmをこの時間なら出来すぎだ。飲み物を頂き、先を急ぐ。
折り返すと、前方から来る、これからそれぞれの折り返し地点に進む人たちに出会う。9:20には師匠夜久さんと出合い、お互いの健闘を称えあった。夜久さんは既にTシャツが体から出た塩で真っ白になっていてご苦労の程がうかがい知れる。
9:24、第6エイド、45km地点に到着。バナナを頂く。この時点で80kmの順位は1位と知らされる。えーっ、マジ!という感じ。
10:34、第7エイド、55km地点に到着。10km/1時間を守っている。脚も動いている。なんともいえない至福のひと時を感じていた。前に走る人が一人もいないという感激を。
11:14、第8エイド、60km地点に到着。おにぎりを頂く。実はこのエイドの2kmほど手前で、いつもの塩切れの状態となり、脚が前に出なくなっていた。ところが今回のエイドではあるといわれていた塩がどこにもおいていないのだった。ウルトラの際はスポーツソルトを携帯して走ることを旨としているが、今回はそれを持ってきていない。しかたなく道路わきにある和菓子屋さんに飛び込み、状況を説明し食塩をいただけないかと相談したところ、どうぞと一塊の塩を頂き、そこから力が湧いてきて、一歩一歩と前へ進むきっかけとなった。
12:37第9エイド到着。この10kmは長かった。1時間20分かけての10kmだった。行きに向かい風、右からの風だった風向きが変わり、前方から、あるいは左手から吹く感じになっていた。第8エイドを出てすぐのところで80kmの部の人に抜かれたのも元気がなくなった原因かもしれない。とにかく脚が前へ出ない。今回も写真を撮影しながらのレースだったが、ほとんど撮影できないくらい疲れてしまっていた。セントレア中部国際空港から飛び立つ飛行機を眺めながら、早くゴールにたどり着きたい、ただひたすらそう思った。
第9エイド70km地点の手前で、どうも雰囲気が違う感じを持っていた。それは、往きに通った道と違うのではという感じだ。道を間違えると、間違えたところまで引き返し、そこからまた走らなければならない。お土産屋さんで「ここを通り過ぎたランナーはいらっしゃいませんか?」と尋ねる。お店の方は、「2人連れのランナーが行きましたよ」と仰った。しばらく走ると、後から来た車から、「道が間違ってますよ。この先を左折してオリジナルのコースに戻ってください。そしてコースのエイドに寄って行ってください。」とのこと。ありがたい。このまま行けば、エイド=チェックポイントでの未通過となり、失格となるところだった。少々遠回りしてコースに戻り、バナナを頂き、給水していると、80kmの部のランナーが2名来られた。前に1名、この2名に抜かれると、私は4位。入賞はなくなると思い、そそくさとエイドを後にして先に進んでいく。後を振り向くと、きっとそこにはランナーがいて、抜かれるという恐怖感からか、前だけ見て力が衰えつつある脚に喝を入れて進んでいく。
最後の20km以降、脚が前に出なくなったため、走り方を意識的に変えてみた。歩幅を小さくして、Newtonの特性である、フォアフットで着地して作用反作用で推進力に変える力を使うことにした。これが功を奏して、小さな歩幅でリズミカルに進んでいった。
そうこうしているうちに常滑市内に入り、3km先常滑競艇場という看板が見えてきた。ああ、帰ってきたという気持で体が満たされ、最後まで歩かずしっかり走ることを心がけた。
13:51:07常滑駅の高架をくぐりホテルAU前のゴール地点に到達。80kmに要した時間は8時間51分7秒。40代の部優勝、80km総合の部2位というものだった。まもなく50歳を迎える私は、今までスポーツで優勝など一度もしたこともない運動音痴だった。それがエントリーした人数は少ないとはいえ1位になったこと、そして部門でも2位に入ったことで久々ぶりに感無量となった。やれば出来る、そんな瞬間だった。
実行委員会の人が手書きでタイムを書いてくれた賞状と優勝メダル、参加賞である金メダルを手に写真を撮ってもらい、レースの余韻に浸っていた。
実行委員長の川崎さんから、ホテルのB1Fでマッサージをやってくれるよというご案内を頂き、川崎さんの友人の整体・マッサージ師である方から入念にマッサージを受け、3時からホテルで入浴し、常滑を16時に発ち家路に着いた。

様々な大会に参加してきたが、きっとこれほどゆるい、手作り感のある大会はないと思う。
大会関係者の皆さんのおもてなしを心に感謝しながら、出来れば来年も50代の部で優勝を狙いたいと思う。