第9回川の道フットレース出場~リタイア記
「何のために走るのか、何を求めて走るのか・・・」
随分前になるが、歴史に名を残し、この歌、さらばハイセイコーの流れる中、
競馬の世界を引退したハイセイコー。
ハイセイコーは勿論言葉が話せない。
私たちは彼がどういう気持ちで走ったのかは、うかがい知ることはできない。
ただ一つ、言えること、それはゴールに向かって走ることがきっと好きだったということだろう。
私の周りにも「走ることが好き」という人がここのところ増えてきている。
走ることが好きだということにも色々な思いがあるだろう。
速く走りたい。
きれいに走りたい。
楽しく走りたい。
仲間と走りたい。
長い距離を走りたい・・・。
そう、私は長い距離を走ることに自分の思いを込めてきた。
走り始めて17年を経た今、素直な気持ちでそう言える。
「自己満足」という話を前回のハセツネカップの完走記でも書いたが、
他人に自慢するためでなく、箔をつけるためでもなく、ただ、走ることを楽しむだけに走る。
今回、日本で開かれるレースで最も長い距離を走る川の道フットレースに
エントリーしたのは、2月のとある日、超ウルトラの完遂の意味合いも込めて、
520kmの部(葛西臨海公園~新潟港)を選んだ。
過去に二度、ハーフ(2009年:小諸~新潟港255KM、2010年:関西臨海公園~小諸265KM)
を完走しているが、フルは別物と多くのウルトラランナーに言われ、身がすくむ思いが募るが、
これから先、こういったレースに参加できることも多くはあるまいと意を決してエントリーしたのだった。
ただ、ずっと心配だったのは、2月に出場した別府大分毎日マラソンで痛めた
左ひざと右の臀部の故障だった。
2,3,4月と練習もままならず、ぶっつけ本番で事前実地練習として出場した
小江戸大江戸203KMをやっとこさ制限時間の19分前にびっこを引きながらゴールした。
いつも診てもらっている韋駄天治療院の桑野先生に何度も治療してもらい、
復活を期したが、時間がなさ過ぎた。
今までレースに臨むにあたって、けがや故障を抱えたままそのスタート地点に着いたことはない。
強いからだ、内臓、関節に産んでくれた亡き母親に感謝するばかりだったが、今回は
故障という一言が自分の中で、焦りや不安、さらには少々大げさだが命の不安まで感じた。
4月29日、馬喰横山駅から徒歩6分のところにある綿商会館で大会の手続きと
レースの説明会が開かれた。
今回参加する人数は、520㎞70名、265㎞29名、255㎞41名、総勢141名とのこと。
ナンバーカードの引き換えと、大会の参加賞として渡されるポロシャツ、キャップ、バンダナの3点を
いただき席に着く。
14:30からの開会式に合わせて14時に到着したが、すでにほぼ満席で、
空いていた一番前の席に着席し、舘山実行委員長の挨拶と大会の詳細を伺う。
また、大会3位の記録を持つ吉岡さんのコース説明と、大会完走に向けてのコツを
第一回から連続完走を続ける三遊亭楽松師匠から拝聴する。
師匠曰く、
「時速5㎞で104時間。それでも制限時間まで28時間ある。焦らずゆっくり。走れるうちに歩く。
限界まで行くと前に進めなくなるので。コンビニは無い場合がままある。飲食物の補給は前に前に」
最後に、舘山さんから、
「ゆっくりいこう。何としても走りきりたいという強い気持ちが必要。マメができたとか
いう理由でのリタイアはダメです。骨折などといった絶望的なケースを除いて、
リタイアはしないでください。」
と厳命が下された。
日は変わり、30日5:30、よく眠れなかった体に鞭を入れて起床した。
いつものように髭を剃り、納豆ご飯を食べ、用を済まし6:30に自宅を出発した。
今日はゴールデンウィークの谷間の平日だ。会社に向かう人たちで込み合う電車に揺られ、
出発地点である葛西臨海公園駅に到着した。
8時ちょうど。すでに60-70人ほどのランナーが集結していた。知己のあるランナーも多い。
心強く感じる。
ランナーを見送るために集まってくれている方々も沢山いて、私も沢山の方から激励のお言葉を
頂いた。
その中で、第6回の大会でご一緒し、その後も多くの大会でお会いしたランマツ1号こと松崎さんから
「荷物になるけど・・・」と申し添えながら渡された自家製の交通安全御守りをいただき、
胸がいっぱいになった。
そもそも第7回大会中に飲酒運転のドライバーに後方からはねられ亡くなった瀬田さんの思いを
日本海に届ける、安全に というのがこの大会のテーマでもある。
無事にレースを終えることなくして意味はない。
スタート10分前に全員で記念撮影。スタート1分前にスタート地点に出走者全員が集まり、
10秒前のカウントダウンには全員のナンバーカードに書かれている瀬田さんの名前に手を当てて
黙祷をし、9時丁度の舘山さんのホィッスルによるスタートの合図でレースはカットオーバーされた。
8分後には海が見える地点に到着、川の道の前半、秩父にその源流を持つ荒川173㎞の海に注ぐ
終着点となる。
荒川の右手のランニング・サイクリングロードを行く。
そこには、「健康の道」と記されたプレートがはめ込まれている。
はたして、このレースが健康なのか?
そんなことを諳んじながらゆっくりと脚を前へ進めていった。
実際のところ一番心配していた左ひざと右臀部の痛みを逐一確認していく。
まだ痛みは酷くないが、きっといつかはその時がくるのでは・・・という心配を持ちながらの
旅たちとなった。
葛西橋の一つ手前の橋を渡り、荒川の右岸にその位置を替える。右岸というのは上流から下流に
向かって右側にあるということだ。
葛西橋の次にある新船堀橋のあたりで、安芸ランニングクラブの皆さんとお会いする。
本当にうれしい。わざわざこんなところまで来てくれて。
荒川大橋、小松川橋、新小松川大橋、平井大橋、木根川橋、新四ツ木橋、四ツ木橋・・・と
多くの橋の下をくぐり、歩を進めていく、左手に東京スカイツリーを見ながらゆっくりと。
10KMを過ぎたあたりから小雨が降り始める。局地的な集中雨になるという
今朝の予報を思い出しながら、どうなるだろうという心配はあったが、空の明るさを見て、
おそらく雨が大降りになることはないだろうとたかをくくった。
20キロ地点少し手前で武蔵ウルトラマラソンクラブの「ウルトラ美女部」の佐藤さんに
アイスバーを振る舞われる。気温はあまり高くないが、湿度があるのでアイスはことのほか
美味しく感じる。ありがとうございます。
32KMを過ぎ、目の前に現れた赤い橋、笹目橋を渡り、左岸の土手を彩湖に進む。
CP(Check point)1彩湖に到着、35.7Km地点。時刻は13:20。
予定では13:30であったので10分貯金。
エイドではそばを2杯、ソーメンを1杯、おにぎり1ついただく。
故障している部位は鈍い痛みはあるもののまだ我慢できるレベル。前へ急ごう。
ウィンドサーフィンでにぎやかな彩湖の岸を走り、44km地点で埼玉走翔、錦が原走友会、バンバンクラブが
開いてくれている私設エイドに到着。
走翔の佐藤さんという女性から、「栗原さんから森田さんという背の高い人が走っているから
応援してあげて」と言われていたとのこと。栗原さんは会社の仲間だ。ここでも人のご縁を
感じる。感謝!
土手には菜の花が咲き乱れ、そこを過ぎゆくランナーの心を癒してくれる。
そして、普段土手では見慣れない線路と、踏切(埼京線の大宮~川越区間)を越えると、エイドに到着となる。
15:26に第2CP,新上江橋東側に到着。予定の時間を26分押している。
おかゆとパン1つ、バナナ2本をいただき、故障の痛みを押して前へ進んでいく。
この橋を渡る途中で川越市に行政区が変わる。そして、橋の中間地点から土手に降りて、75km地点まで
続くサイクリングロードをひたすら走ることになる。
この道に入ったところに、応援する方が書いてくれた言葉を見てまた感動する。
16:50、58km地点、ホンダエアポートのそばに私設エイドを開いてくれている小江戸大江戸マラニックの島田代表、
太田さんら多くの皆さんにお世話になった。サンドイッチをいただき、おなかを満たした。
17:05には川島町と桶川市を結ぶ太郎衛門橋のたもとで私設エイドをしていただいている方から温かいお味噌汁を
頂いた。気温も下がりつつあり、冷たいものばかり飲んでいるおなかには、とても良い感じをもたらすように
感じられた。
そこで偶然お会いしたのが、名古屋からいらした園山さん。
トランスヨーロッパで64日間、毎日65km走るという快挙を成し遂げた方。
毎日走ると足が痛くなりませんか、という私の問いに、
「まず足をそーっと地面についてみて、骨が痛い様だったらしばらく走らずじっとしている。
そして、足が痛くなくなったら、走り出す。」といった具合だ。
何にせよ普通の話ではない。
会社生活もこのレースに出るためにお辞めになって、3か月間トレーニングを重ねて完走されたとのこと。
毎日宿に着いたら(宿は、大体街の体育館のようなところらしい)洗濯をし食事をとったら、シューズの
修理をしていたようだ。
シューグーで切ったタイヤやチューブをソールに張り付けて修繕をしたが、外人は何足も持っていて、
ダメになったら捨てるという人が多かったとおっしゃっていた。
いろいろと話をさせて頂きながら前へ進んでいくと、なぜか故障していることを忘れるかの如くで、
長い時間に渡る超ウルトラの走りをどうコントロールするかということに大事なことを学んだ。
CP3吉見町桜堤公園には17:49到着。65.6km地点。
予定タイムは17:30においていたので、少し挽回したか。
ここではえだまめさんこと、元世界陸上代表の江田良子さんはじめ多くのボランティアの皆さんに
食事を振る舞われた。
けんちんうどん2杯とおにぎりを1ついただいた。前回同様、おなかは元気。どんどん食べることができる。
ありがたい。
18:23には日本で最も川幅が広い地点(2537m)に到達した。
70kmあたりか、産まれた町である坂戸から近いこともあって、だいぶ北に遡上してきたことを実感する。
CP4鴻巣市大芦橋南西側には19:15到着。予定タイムも19時でそれほど大きな隔たりはない。
ここではあつあつのカレーヌードルを頂いた。
寒い中、エイドで私たちランナーのために食事を作っていただくボランティアスタッフの皆さんには
本当に感謝の気持ちでいっぱいになる。
脚はまだ動いている。しかし、右の臀部はどうしようもないくらい動きが悪い。痛みが増していないだけ
良しとしなければ。
真っ暗になった大芦橋を渡り、鴻巣市に入る。
JRの線路を越えて国道17号に入り、次のCPに進む。
人が歩いていない。街で出会った歩行者は、おそらくこの10kmで30人もいないだろう。
車社会を実感する。
熊谷のまちに入り、歩くようなスピードで、ぺたぺたと足を前に付くだけのランになった状態で
前へ進んでいく。
CP5の熊谷警察署には21:30到着。
ここから国道140号バイパスに入り、秩父に続く道をただひたすら行くことになる。
このあたりから、超ウルトラの手ほどきを受けて、2009年にこの川の道に私をいざなっていただいた
圓楽一門会の三遊亭楽松師匠と話をしながら前進していった。
師匠は走力があるのでどんどん前へ行ってしまうが、私は休みをいれず歩くのに毛が生えたくらいの
スピードで前へ進み、途中途中でいろいろな話をさせていただいた。
警察署から10分ほど行った道路左手にあるSC駐車場で私設エイドの方に御呼ばれされて
おにぎり2つをいただき、おなかを満たした。
皆さん私財をなげうって私たちランナーのために飲食物をご用意いただいており、もし次に
こういう機会があれば、私も恩返しを次のランナーにしてあげたいと心から思った。
140号バイパスから旧道に入る分岐点である黒田交差点には23:42に着いた。
まだ眠気はそれほどない。
じわっとやってくる寒さは走ることで熱量をだすことでなんとかしのいでいる。
玉淀駅を過ぎて、人けのない140号旧道を何も考えずに進んでいくと、やっとCP6
波久礼駅前T字路に到着した。日は変わり1日1:38になった。予定では23:30だったので
この区間はほとんど速度が出ていないことがわかる。
スタートからの距離は108.5km、平均時速は6.6kmまで下降。
スピードを上げようと腕を振ったり、足で地面を踏みこんだりといろいろやってきたが、
実際全く効果なし。
気持ちが折れつつあることを実感しながら、それでも私設エイドをやっていただいている
トレイルでぽんの皆さんに感謝しながら、温かいスープを2杯いただいた。
池ノ谷さん、感謝!
ここから先は道幅が狭くなり、眠気もどんどんやってきてとてもつらい時間帯だった。
途中、115km地点を越えたとことになるトンネルのう回路に設定されている遊歩道のベンチで
楽松師匠とベンチで横になった。
余りの寒さに5分ほどで起き、まだ隣で寝ている師匠にお別れし、先に進んだ。
皆野寄居バイパスの入口付近で道は大きく弧を描いて右に曲がっていく。119km地点には4:03
到着した。
ここから先は誰とも会うこともかなわず、一人もくもくと進んでいくことになった。
1人は寂しいだけではなく、前へ進むエネルギーも損なわれる気持ちになる。
やっとのことで秩父市に入ったのが4:46。そろそろ夜明けのころだ。雲を多く抱く空が
しらじらと明るくなってきた。
120km地点では、体を大きく削り、日本の経済を支えてきたセメントの産地である武甲山を
遠くに眺めることができた。
CP7、129.8km地点、秩父市上野町交差点には6:29到着。
この地点に差し掛かる前に、道の右手に見えてきた吉野家に入り、納豆朝定食350円を
摂った。
ごはん、味噌汁、納豆、海苔、生卵と、日本の定番の朝ごはんをいただき、また少し元気が
出てきた。
この先、132km地点から170kmまで何も食料を調達できるお店がないこともあり、2Lの
ペットボトルのお茶、おにぎり4つを購入し、さらに重たくなったグレゴリーのザックを担ぐ。
ザックにはレストポイントである中津川のこまどり荘までの装備を入れてある。
地図
ライト2つ(200ルーメンの単三3本のヘッドライトと単四3本のハンドライト)
雨具
モンベルULジャケット
エネルギージェル3つ
アミノバイタル8包
ペットボトル飲料500ml×2
お金、財布
携帯電話
ティッシュ
救急セット
デジカメ
タオル
ここまでが標準装備だ。7~8kgほど。
これに寒さが予定される三國峠ではさらにウェアが追加されることになる。
秩父に入り山並みを眺められることになって景色はよくなったが、体は依然いうことをきいてくれない。
どうしたんだ、なんとかならないかという気持ちが交錯する。
この時点で、今回のレースは途中で断念するかもしれない、そんな気持ちになっていった。
135km地点、浦山ダムが見えるところまできた。7:33、陽が上がり温かくなる気配を感じる。
灯篭のある風流な橋を過ぎ、眼下に荒川の上流を見下ろして、ここがかなり上流まで来ていることを
実感する。
道路のよこには鯉のぼりの泳ぐ民家が散見されるようになった。
私たちの住む都会では、アパートのベランダから小さな鯉のぼりを出すのが普通だが、
一軒家ではいまだにこうして一家の大事な子どもの健康を祈って、端午の節句を祝うのだろう。
三峰神社の入口には10:16到着。
風流な赤い橋のかかる橋を過ぎれば、155km地点にあるループ橋だ。11:43に橋の最上部に
到達。そこから大きくそびえる滝沢ダムを望む。
このダムは、中津川をせき止めたものだ。数キロに渡るとても大きな水瓶ができている。
水は透き通り、まさにエメラルドグリーンの色を呈している。
あまり見ていると、すこまれそうな、そんな感じがする。
159km地点、CP8中津川方面分岐点には1日12:35到着。ただひたすらこれからこまどり荘まで続く11kmの上りを
耐えて上っていくこととなる。
ここでもにわか雨に降られるが、分岐点でお会いした大会スタッフの岸やんこと岸田さんの
「おそらく雨は降らないね」のことばを信じて、雨具を着ずに進むことにした。
やっとのことで到達したCP9秩父市こまどり荘は14:55。ここまでの所要時間は29時間。
170km地点なので5.8km/hourまで下がった。もう後がなくなった感じだ。
スタッフの方に到着順位を聞くと、ほぼ真ん中くらいとの返事が返ってきた。
ひとまず風呂に入り、体の状態をチェックする。
右足くるぶし内側下部には大きく膨れた血まめ、左足人差し指付け根のマメと痛み、さらには
故障部位の鈍い痛みだ。
前回は足に合わないシューズを履いたため同様な症状になったが、今回は何度もためし履きをして
適性を合わせ、GELカヤノというウルトラ用のシューズを用意したが、全てを改善するには
至らなかった。それが超ウルトラなのだろう。
ただし、良かったのは相も変わらず食欲は旺盛で、カレーを三杯とサラダ、スープをいただけるほど
消化器官は元気だったことだ。
風呂に入り、ロッジで仮眠をとろうと布団に入るも、脚が熱を持ってほてっていることと、
他の方の出発する準備をする音などで二時間ほど横になっただけでスタートすることになった。
19:03、四時間ほどのレストポイント滞留時間を経て、大会の最大の難関でもある
埼玉から長野に抜ける中津川林道の最高地点、1828mの三国峠へのアタックを始める。
lここは非常に危険な区間で、二名以上での走行をするようにとの指示が出ていたので、
同行していただける方を探していたところ、佐賀県からおこしになている牧さんと、
偶然にも同じ和光市からこの大会に参加されている武井さんとご一緒させていただくことと
なった。
それぞれのこの大会に賭ける思い、今まで出てきた大会の思い出などを伺っているうちに
こまどり荘から山頂までのほぼ半分の距離190kmまで到達できた。
気温はどんどん下がってきた。山頂付近での気温がどうなるか気になる。
そして、このあたりから勾配がきつくなる。
用をたしていた間に、同行いただいたお二方から離されてしまう。
二人について行こうという気持ちだけでここまで来た。
それがなくなった今、坂を上るスピードは落ち込み、このままでは何時に登頂できるかわからない
状況になった。
自分の照らすヘッドライトの光を頼りに、とにかく上るしかない。
覚悟を決めた。
雪が舞う中を、1人で進むことを。
CP10、188.5km地点 三国峠には一日の終わり、23:54に到達。CP9から約5時間かかった
ことになる。
山頂では、今年も私設エイドの方がライトを照らして私たちを待っていてくれていた。
温かいコーンスープを頂く。気温をうかがうと、0度を下回っている。さらに吹きすさぶ風で体感温度は
零下5度以下だろうとのこと。
雪も降るはずだ、この寒さなら。
この峠攻めをするにあたり、上衣はファイントラックのアンダー、マウンテンハードウェアのトレランシャツ、
UTMF完走時に頂いたランニングベスト、そしてUNIQLOのダウンを着込んできた。
(雨の時用にはフリースを用意していたが今回はダウンを使用した)下はランニングタイツと
雨にぬれてもいいように絹のランニングソックスを履いている。
さあ、下りだ。
今までの埼玉側の未舗装と違い、長野側はざっくりと舗装されている。ただし、ところどころに
亀裂や、舗装が破たんしているところもあるので転倒に注意しなければならない。
下りはさらに冷えることを予測して雨具上下を着こんで対応した。
寒さだけではない。眠気と同時に幻影がまた今回も見えだした。
それも今までと違って、そこには絶対に居ないといえるこどもだったり、おじさん、
おばさんだったりした。
山ということもあり、なにか恐ろしげな雰囲気に襲われ、早く夜が明けないかとつらつら
考えたりした。
200kmを過ぎたあたりで毎年私設エイドを出していただいている方がいらっしゃるとの説明を
大会説明会で伺っていたが、実際はその所在はなく、少し気落ちして前へ進むことになった。
とても寒い、とても眠い。歩いている途中で10回以上、立ったまま寝ていた。
はっと気づくと、そこには「今何やっているんだっけ?」と自分に問う私がいた。
進む方角が間違うと、元に戻ってしまうので、山の位置を確認して、進むべき道を確認して
いったのだった。
今となって思い出せば、これはとても怖いことだ。
山なら、滑落して死んでしまうことにもなるし、道路を走る車がないから良いものの、
もしすぐそばを車が通過したら、ぶつかって事故は免れなかったろう。
209km地点、朝9時から夜の9時まで営業しているというナナーズというスーパーの
前で、バンバンクラブの皆さんがエイドを出されていた。2日の4:30になっていた。
この時点で私が持っていた携行食はエネルギーゼリーのみとなっており、温かい味噌汁、
ブランデー紅茶には助けてもらった。
そして、10分ほど暖房で暖まった車で仮眠をとらせていただいて、レースに戻った。
前方正面の遠くに、雲の上に頭を出す八ヶ岳を望む。
その後も眠気からの復活は夜明けからしばらくするまでなく、5:39に信濃川上駅を通過。
道の右手には、千曲川がそよそよと小さな流れを作りつつある。
土手にはいまだつぼみを開いていない5分咲きの桜が咲き並んでいる。
この地区の気温の低さを物語っているのか、自然の摂理は偉大だ。
215kmの樋沢を過ぎたあたりで、JR小海線を横切る。
小海線は、日本で最も標高の高いところを走る線路だ。
CP11南牧村市場交差点には6:54到着。
エネルギージェルとあめで腹ごしらえし、先を急ぐ。
しかし、全く足が出ない。進まない。
前回との大きな違いは、けらないである程度のスピードが保てたが、今回はそれが全くないことだ。
230km地点少し前。8:02にバンバンクラブが開いてくれているエイドでけんちんうどんと
いなり寿司、おにぎりをいただく。
コーヒーで眠気を覚まし、お礼を申し上げ、再度コースに戻る。
何度もなんども苦しいときに助けてくれるのがこういった私設エイドだ。
周りにはコンビニなど調達施設が全くない。時間の関係で開いていないのではない。
存在しないのだ。
そんな区間が多くあり、その間に、砂漠の中のオアシスよろしく私設エイドを設けていただいている。
小海町に入った。9:06。
千曲川をまたいで鯉のぼりが寒い北風にあおられて優雅に泳いでいる。
その優雅さとは対照的に私の心は荒んでいた。
会社を休みをもらって出場をしたレース。
なんとしても時間内完走したい。
脚の痛みはなんとでもなる。
時間はぎりぎりだが、これから無駄な時間を使わなければなんとかなる可能性はある。
次のレストポイントである津南町の鹿渡館での制限時間はなんとか滑り込めるだろう。
でも、でも・・・。
どうしてもふっきれないことがあった。
それは、なかなか前へ進めないフラストレーションと、三国峠の上りから出始めた腸の異常な
活動とガスの発生、そして連続する下痢だ。
下痢止め薬は残念ながら持っていない。出場前に用意しようとは思ったが、結果的に
持ってこなかった。
だましだましCP12,257km地点、長土呂東交差点に到着。
すき家でやきそば牛丼大盛を食べて、ゆっくりしていたら15:40になっていた。
自分の今回の最後の走りになると想定するCP13までの8kmを最後の力を振り絞って
走り始めた。
今まで歩き半分、ラン半分だったが、9割は走って5時までにゴールできるよう腕を
しっかり振って足を前へ置いていく。走るという感じではない。
まさに足を置いていくという感じだ。
やっとのことでたどりついたCP13,小諸グランドキャッスルホテル。264.7km地点。
2日17:04着。
56時間4分。平均時速4.7km。
宿について真っ先におこなったのは、帰りの電車が家までたどり着ける状況かどうかだった。
諸般の事情によりリタイア・帰宅を余儀なくされた。
風呂に入り汗を流し、19:04に小諸駅を出て佐久平に19分着、そして
19:34発長野新幹線あさまの車窓の人となり、家路のついた。
家にたどり着いて2日が経とうとしている。
痛むところは故障個所2つと左右ふくらはぎだ。
ふくらはぎの筋肉が痛むのは、走り方が小さく、ひざの下だけを使って走っているからだ。
長い距離を走る(歩く)には、絶対やってはならない走りかただ。
胃腸は通常の状態に戻った。
体重は帰宅後夕食をたくさん食べた状態で70kgちょうど、体脂肪は9.9%となっていた。
出場前は67kg、体脂肪12-13%あったので、食べる以上に体脂肪を使ってエネルギーに
かえていたことがうかがい知れる。
シューズはといえば、→左足くるぶしの部分に大きな穴が開き、両かかとの部分にも亀裂が
入った。
これはレースの厳しさというよりは、走り方に問題があるのだろう。
上半身にはなんら問題は残っていない。
足の指は、両足とも3枚ずつ爪が死んでしまった。
これも足のつき方、運び方に問題があるからだ。
気象条件に合わせた体つくりも大切に感じた。
三国峠で出会ったランナーは、どうみても私ほど厚着をしている人は見かけなかった。
走って発生される熱量をうまく体温維持に使い、背負う荷物を減らすことで走るポテンシャルを
上げているのだろう。
荷物も大量に持っていきすぎたかもしれない。
最小限の荷物は走る能力に差をつける。たとえ1gでも軽ければ、それは体に与えるダメージ、
負荷を減らすことになる。
ただし、走る時の危険と隣り合わせであり、自分の身を守るための装備、携行飲食物との
バーターとなることだけはよくよく考慮する必要がある。
三国峠に上り始めたころを中心に、ラン仲間からメールが着信する音がなっているのは
わかっていたが、寒さと疲れでとても読む気がしなかった。
レース終盤でメールを確認したが、皆さんから頂いたメールには本当に勇気つけられた。
そして、仲間をもった喜びに胸が熱くなった。
家族からは何度もメールが入った。
小諸でのリタイアを知らせるメールを入れると、埼玉から小諸まで迎えに行くという。
こういう厳しい状況下でのこの温かい言葉にも心の底から感謝し、けがもせず、事故にも
あわず、健康状態もほぼ通常の状態で戻ってこれたことも自信にはなった。
今はただ、ゆっくりと休みたい、そう思うだけだが、小諸キャッスルホテルを去る時に
大会副実行委員長の柳沢さんからかけられた、
「森田さん、この大会のリベンジはどこでするの?」
という問いに、一呼吸おいてこうお答えした。
「奥武蔵ウルトラマラソンです。」
本当は「川の道でリベンジします」
そういいたかったが、今の自分の走力、気持ちの持ち方、トレーニングの方法の改善、
気象条件への対応、装備の綿密な検討と事前の試験的使用なくしては絶対にこの
川の道520kmに出てはいけないと感じたのだ。
それくらい私にとってはとてつもなく高い目標となり、乗り越えなければならない自己満足の
集大成となる大会として自分の中で位置付けられた。
いい機会なので、自分の52年の生涯を振り返り、自分を見つめて前へ進む力を見出そう。
そして、走る力を生きる力に替えて、力いっぱい生きて行こう。
そんな機会を作ってくれた、私にとって人生の転機となるようなレース、
それが今回の「川の道フットレース」でした。
以上。
随分前になるが、歴史に名を残し、この歌、さらばハイセイコーの流れる中、
競馬の世界を引退したハイセイコー。
ハイセイコーは勿論言葉が話せない。
私たちは彼がどういう気持ちで走ったのかは、うかがい知ることはできない。
ただ一つ、言えること、それはゴールに向かって走ることがきっと好きだったということだろう。
私の周りにも「走ることが好き」という人がここのところ増えてきている。
走ることが好きだということにも色々な思いがあるだろう。
速く走りたい。
きれいに走りたい。
楽しく走りたい。
仲間と走りたい。
長い距離を走りたい・・・。
そう、私は長い距離を走ることに自分の思いを込めてきた。
走り始めて17年を経た今、素直な気持ちでそう言える。
「自己満足」という話を前回のハセツネカップの完走記でも書いたが、
他人に自慢するためでなく、箔をつけるためでもなく、ただ、走ることを楽しむだけに走る。
今回、日本で開かれるレースで最も長い距離を走る川の道フットレースに
エントリーしたのは、2月のとある日、超ウルトラの完遂の意味合いも込めて、
520kmの部(葛西臨海公園~新潟港)を選んだ。
過去に二度、ハーフ(2009年:小諸~新潟港255KM、2010年:関西臨海公園~小諸265KM)
を完走しているが、フルは別物と多くのウルトラランナーに言われ、身がすくむ思いが募るが、
これから先、こういったレースに参加できることも多くはあるまいと意を決してエントリーしたのだった。
ただ、ずっと心配だったのは、2月に出場した別府大分毎日マラソンで痛めた
左ひざと右の臀部の故障だった。
2,3,4月と練習もままならず、ぶっつけ本番で事前実地練習として出場した
小江戸大江戸203KMをやっとこさ制限時間の19分前にびっこを引きながらゴールした。
いつも診てもらっている韋駄天治療院の桑野先生に何度も治療してもらい、
復活を期したが、時間がなさ過ぎた。
今までレースに臨むにあたって、けがや故障を抱えたままそのスタート地点に着いたことはない。
強いからだ、内臓、関節に産んでくれた亡き母親に感謝するばかりだったが、今回は
故障という一言が自分の中で、焦りや不安、さらには少々大げさだが命の不安まで感じた。
4月29日、馬喰横山駅から徒歩6分のところにある綿商会館で大会の手続きと
レースの説明会が開かれた。
今回参加する人数は、520㎞70名、265㎞29名、255㎞41名、総勢141名とのこと。
ナンバーカードの引き換えと、大会の参加賞として渡されるポロシャツ、キャップ、バンダナの3点を
いただき席に着く。
14:30からの開会式に合わせて14時に到着したが、すでにほぼ満席で、
空いていた一番前の席に着席し、舘山実行委員長の挨拶と大会の詳細を伺う。
また、大会3位の記録を持つ吉岡さんのコース説明と、大会完走に向けてのコツを
第一回から連続完走を続ける三遊亭楽松師匠から拝聴する。
師匠曰く、
「時速5㎞で104時間。それでも制限時間まで28時間ある。焦らずゆっくり。走れるうちに歩く。
限界まで行くと前に進めなくなるので。コンビニは無い場合がままある。飲食物の補給は前に前に」
最後に、舘山さんから、
「ゆっくりいこう。何としても走りきりたいという強い気持ちが必要。マメができたとか
いう理由でのリタイアはダメです。骨折などといった絶望的なケースを除いて、
リタイアはしないでください。」
と厳命が下された。
日は変わり、30日5:30、よく眠れなかった体に鞭を入れて起床した。
いつものように髭を剃り、納豆ご飯を食べ、用を済まし6:30に自宅を出発した。
今日はゴールデンウィークの谷間の平日だ。会社に向かう人たちで込み合う電車に揺られ、
出発地点である葛西臨海公園駅に到着した。
8時ちょうど。すでに60-70人ほどのランナーが集結していた。知己のあるランナーも多い。
心強く感じる。
ランナーを見送るために集まってくれている方々も沢山いて、私も沢山の方から激励のお言葉を
頂いた。
その中で、第6回の大会でご一緒し、その後も多くの大会でお会いしたランマツ1号こと松崎さんから
「荷物になるけど・・・」と申し添えながら渡された自家製の交通安全御守りをいただき、
胸がいっぱいになった。
そもそも第7回大会中に飲酒運転のドライバーに後方からはねられ亡くなった瀬田さんの思いを
日本海に届ける、安全に というのがこの大会のテーマでもある。
無事にレースを終えることなくして意味はない。
スタート10分前に全員で記念撮影。スタート1分前にスタート地点に出走者全員が集まり、
10秒前のカウントダウンには全員のナンバーカードに書かれている瀬田さんの名前に手を当てて
黙祷をし、9時丁度の舘山さんのホィッスルによるスタートの合図でレースはカットオーバーされた。
8分後には海が見える地点に到着、川の道の前半、秩父にその源流を持つ荒川173㎞の海に注ぐ
終着点となる。
荒川の右手のランニング・サイクリングロードを行く。
そこには、「健康の道」と記されたプレートがはめ込まれている。
はたして、このレースが健康なのか?
そんなことを諳んじながらゆっくりと脚を前へ進めていった。
実際のところ一番心配していた左ひざと右臀部の痛みを逐一確認していく。
まだ痛みは酷くないが、きっといつかはその時がくるのでは・・・という心配を持ちながらの
旅たちとなった。
葛西橋の一つ手前の橋を渡り、荒川の右岸にその位置を替える。右岸というのは上流から下流に
向かって右側にあるということだ。
葛西橋の次にある新船堀橋のあたりで、安芸ランニングクラブの皆さんとお会いする。
本当にうれしい。わざわざこんなところまで来てくれて。
荒川大橋、小松川橋、新小松川大橋、平井大橋、木根川橋、新四ツ木橋、四ツ木橋・・・と
多くの橋の下をくぐり、歩を進めていく、左手に東京スカイツリーを見ながらゆっくりと。
10KMを過ぎたあたりから小雨が降り始める。局地的な集中雨になるという
今朝の予報を思い出しながら、どうなるだろうという心配はあったが、空の明るさを見て、
おそらく雨が大降りになることはないだろうとたかをくくった。
20キロ地点少し手前で武蔵ウルトラマラソンクラブの「ウルトラ美女部」の佐藤さんに
アイスバーを振る舞われる。気温はあまり高くないが、湿度があるのでアイスはことのほか
美味しく感じる。ありがとうございます。
32KMを過ぎ、目の前に現れた赤い橋、笹目橋を渡り、左岸の土手を彩湖に進む。
CP(Check point)1彩湖に到着、35.7Km地点。時刻は13:20。
予定では13:30であったので10分貯金。
エイドではそばを2杯、ソーメンを1杯、おにぎり1ついただく。
故障している部位は鈍い痛みはあるもののまだ我慢できるレベル。前へ急ごう。
ウィンドサーフィンでにぎやかな彩湖の岸を走り、44km地点で埼玉走翔、錦が原走友会、バンバンクラブが
開いてくれている私設エイドに到着。
走翔の佐藤さんという女性から、「栗原さんから森田さんという背の高い人が走っているから
応援してあげて」と言われていたとのこと。栗原さんは会社の仲間だ。ここでも人のご縁を
感じる。感謝!
土手には菜の花が咲き乱れ、そこを過ぎゆくランナーの心を癒してくれる。
そして、普段土手では見慣れない線路と、踏切(埼京線の大宮~川越区間)を越えると、エイドに到着となる。
15:26に第2CP,新上江橋東側に到着。予定の時間を26分押している。
おかゆとパン1つ、バナナ2本をいただき、故障の痛みを押して前へ進んでいく。
この橋を渡る途中で川越市に行政区が変わる。そして、橋の中間地点から土手に降りて、75km地点まで
続くサイクリングロードをひたすら走ることになる。
この道に入ったところに、応援する方が書いてくれた言葉を見てまた感動する。
16:50、58km地点、ホンダエアポートのそばに私設エイドを開いてくれている小江戸大江戸マラニックの島田代表、
太田さんら多くの皆さんにお世話になった。サンドイッチをいただき、おなかを満たした。
17:05には川島町と桶川市を結ぶ太郎衛門橋のたもとで私設エイドをしていただいている方から温かいお味噌汁を
頂いた。気温も下がりつつあり、冷たいものばかり飲んでいるおなかには、とても良い感じをもたらすように
感じられた。
そこで偶然お会いしたのが、名古屋からいらした園山さん。
トランスヨーロッパで64日間、毎日65km走るという快挙を成し遂げた方。
毎日走ると足が痛くなりませんか、という私の問いに、
「まず足をそーっと地面についてみて、骨が痛い様だったらしばらく走らずじっとしている。
そして、足が痛くなくなったら、走り出す。」といった具合だ。
何にせよ普通の話ではない。
会社生活もこのレースに出るためにお辞めになって、3か月間トレーニングを重ねて完走されたとのこと。
毎日宿に着いたら(宿は、大体街の体育館のようなところらしい)洗濯をし食事をとったら、シューズの
修理をしていたようだ。
シューグーで切ったタイヤやチューブをソールに張り付けて修繕をしたが、外人は何足も持っていて、
ダメになったら捨てるという人が多かったとおっしゃっていた。
いろいろと話をさせて頂きながら前へ進んでいくと、なぜか故障していることを忘れるかの如くで、
長い時間に渡る超ウルトラの走りをどうコントロールするかということに大事なことを学んだ。
CP3吉見町桜堤公園には17:49到着。65.6km地点。
予定タイムは17:30においていたので、少し挽回したか。
ここではえだまめさんこと、元世界陸上代表の江田良子さんはじめ多くのボランティアの皆さんに
食事を振る舞われた。
けんちんうどん2杯とおにぎりを1ついただいた。前回同様、おなかは元気。どんどん食べることができる。
ありがたい。
18:23には日本で最も川幅が広い地点(2537m)に到達した。
70kmあたりか、産まれた町である坂戸から近いこともあって、だいぶ北に遡上してきたことを実感する。
CP4鴻巣市大芦橋南西側には19:15到着。予定タイムも19時でそれほど大きな隔たりはない。
ここではあつあつのカレーヌードルを頂いた。
寒い中、エイドで私たちランナーのために食事を作っていただくボランティアスタッフの皆さんには
本当に感謝の気持ちでいっぱいになる。
脚はまだ動いている。しかし、右の臀部はどうしようもないくらい動きが悪い。痛みが増していないだけ
良しとしなければ。
真っ暗になった大芦橋を渡り、鴻巣市に入る。
JRの線路を越えて国道17号に入り、次のCPに進む。
人が歩いていない。街で出会った歩行者は、おそらくこの10kmで30人もいないだろう。
車社会を実感する。
熊谷のまちに入り、歩くようなスピードで、ぺたぺたと足を前に付くだけのランになった状態で
前へ進んでいく。
CP5の熊谷警察署には21:30到着。
ここから国道140号バイパスに入り、秩父に続く道をただひたすら行くことになる。
このあたりから、超ウルトラの手ほどきを受けて、2009年にこの川の道に私をいざなっていただいた
圓楽一門会の三遊亭楽松師匠と話をしながら前進していった。
師匠は走力があるのでどんどん前へ行ってしまうが、私は休みをいれず歩くのに毛が生えたくらいの
スピードで前へ進み、途中途中でいろいろな話をさせていただいた。
警察署から10分ほど行った道路左手にあるSC駐車場で私設エイドの方に御呼ばれされて
おにぎり2つをいただき、おなかを満たした。
皆さん私財をなげうって私たちランナーのために飲食物をご用意いただいており、もし次に
こういう機会があれば、私も恩返しを次のランナーにしてあげたいと心から思った。
140号バイパスから旧道に入る分岐点である黒田交差点には23:42に着いた。
まだ眠気はそれほどない。
じわっとやってくる寒さは走ることで熱量をだすことでなんとかしのいでいる。
玉淀駅を過ぎて、人けのない140号旧道を何も考えずに進んでいくと、やっとCP6
波久礼駅前T字路に到着した。日は変わり1日1:38になった。予定では23:30だったので
この区間はほとんど速度が出ていないことがわかる。
スタートからの距離は108.5km、平均時速は6.6kmまで下降。
スピードを上げようと腕を振ったり、足で地面を踏みこんだりといろいろやってきたが、
実際全く効果なし。
気持ちが折れつつあることを実感しながら、それでも私設エイドをやっていただいている
トレイルでぽんの皆さんに感謝しながら、温かいスープを2杯いただいた。
池ノ谷さん、感謝!
ここから先は道幅が狭くなり、眠気もどんどんやってきてとてもつらい時間帯だった。
途中、115km地点を越えたとことになるトンネルのう回路に設定されている遊歩道のベンチで
楽松師匠とベンチで横になった。
余りの寒さに5分ほどで起き、まだ隣で寝ている師匠にお別れし、先に進んだ。
皆野寄居バイパスの入口付近で道は大きく弧を描いて右に曲がっていく。119km地点には4:03
到着した。
ここから先は誰とも会うこともかなわず、一人もくもくと進んでいくことになった。
1人は寂しいだけではなく、前へ進むエネルギーも損なわれる気持ちになる。
やっとのことで秩父市に入ったのが4:46。そろそろ夜明けのころだ。雲を多く抱く空が
しらじらと明るくなってきた。
120km地点では、体を大きく削り、日本の経済を支えてきたセメントの産地である武甲山を
遠くに眺めることができた。
CP7、129.8km地点、秩父市上野町交差点には6:29到着。
この地点に差し掛かる前に、道の右手に見えてきた吉野家に入り、納豆朝定食350円を
摂った。
ごはん、味噌汁、納豆、海苔、生卵と、日本の定番の朝ごはんをいただき、また少し元気が
出てきた。
この先、132km地点から170kmまで何も食料を調達できるお店がないこともあり、2Lの
ペットボトルのお茶、おにぎり4つを購入し、さらに重たくなったグレゴリーのザックを担ぐ。
ザックにはレストポイントである中津川のこまどり荘までの装備を入れてある。
地図
ライト2つ(200ルーメンの単三3本のヘッドライトと単四3本のハンドライト)
雨具
モンベルULジャケット
エネルギージェル3つ
アミノバイタル8包
ペットボトル飲料500ml×2
お金、財布
携帯電話
ティッシュ
救急セット
デジカメ
タオル
ここまでが標準装備だ。7~8kgほど。
これに寒さが予定される三國峠ではさらにウェアが追加されることになる。
秩父に入り山並みを眺められることになって景色はよくなったが、体は依然いうことをきいてくれない。
どうしたんだ、なんとかならないかという気持ちが交錯する。
この時点で、今回のレースは途中で断念するかもしれない、そんな気持ちになっていった。
135km地点、浦山ダムが見えるところまできた。7:33、陽が上がり温かくなる気配を感じる。
灯篭のある風流な橋を過ぎ、眼下に荒川の上流を見下ろして、ここがかなり上流まで来ていることを
実感する。
道路のよこには鯉のぼりの泳ぐ民家が散見されるようになった。
私たちの住む都会では、アパートのベランダから小さな鯉のぼりを出すのが普通だが、
一軒家ではいまだにこうして一家の大事な子どもの健康を祈って、端午の節句を祝うのだろう。
三峰神社の入口には10:16到着。
風流な赤い橋のかかる橋を過ぎれば、155km地点にあるループ橋だ。11:43に橋の最上部に
到達。そこから大きくそびえる滝沢ダムを望む。
このダムは、中津川をせき止めたものだ。数キロに渡るとても大きな水瓶ができている。
水は透き通り、まさにエメラルドグリーンの色を呈している。
あまり見ていると、すこまれそうな、そんな感じがする。
159km地点、CP8中津川方面分岐点には1日12:35到着。ただひたすらこれからこまどり荘まで続く11kmの上りを
耐えて上っていくこととなる。
ここでもにわか雨に降られるが、分岐点でお会いした大会スタッフの岸やんこと岸田さんの
「おそらく雨は降らないね」のことばを信じて、雨具を着ずに進むことにした。
やっとのことで到達したCP9秩父市こまどり荘は14:55。ここまでの所要時間は29時間。
170km地点なので5.8km/hourまで下がった。もう後がなくなった感じだ。
スタッフの方に到着順位を聞くと、ほぼ真ん中くらいとの返事が返ってきた。
ひとまず風呂に入り、体の状態をチェックする。
右足くるぶし内側下部には大きく膨れた血まめ、左足人差し指付け根のマメと痛み、さらには
故障部位の鈍い痛みだ。
前回は足に合わないシューズを履いたため同様な症状になったが、今回は何度もためし履きをして
適性を合わせ、GELカヤノというウルトラ用のシューズを用意したが、全てを改善するには
至らなかった。それが超ウルトラなのだろう。
ただし、良かったのは相も変わらず食欲は旺盛で、カレーを三杯とサラダ、スープをいただけるほど
消化器官は元気だったことだ。
風呂に入り、ロッジで仮眠をとろうと布団に入るも、脚が熱を持ってほてっていることと、
他の方の出発する準備をする音などで二時間ほど横になっただけでスタートすることになった。
19:03、四時間ほどのレストポイント滞留時間を経て、大会の最大の難関でもある
埼玉から長野に抜ける中津川林道の最高地点、1828mの三国峠へのアタックを始める。
lここは非常に危険な区間で、二名以上での走行をするようにとの指示が出ていたので、
同行していただける方を探していたところ、佐賀県からおこしになている牧さんと、
偶然にも同じ和光市からこの大会に参加されている武井さんとご一緒させていただくことと
なった。
それぞれのこの大会に賭ける思い、今まで出てきた大会の思い出などを伺っているうちに
こまどり荘から山頂までのほぼ半分の距離190kmまで到達できた。
気温はどんどん下がってきた。山頂付近での気温がどうなるか気になる。
そして、このあたりから勾配がきつくなる。
用をたしていた間に、同行いただいたお二方から離されてしまう。
二人について行こうという気持ちだけでここまで来た。
それがなくなった今、坂を上るスピードは落ち込み、このままでは何時に登頂できるかわからない
状況になった。
自分の照らすヘッドライトの光を頼りに、とにかく上るしかない。
覚悟を決めた。
雪が舞う中を、1人で進むことを。
CP10、188.5km地点 三国峠には一日の終わり、23:54に到達。CP9から約5時間かかった
ことになる。
山頂では、今年も私設エイドの方がライトを照らして私たちを待っていてくれていた。
温かいコーンスープを頂く。気温をうかがうと、0度を下回っている。さらに吹きすさぶ風で体感温度は
零下5度以下だろうとのこと。
雪も降るはずだ、この寒さなら。
この峠攻めをするにあたり、上衣はファイントラックのアンダー、マウンテンハードウェアのトレランシャツ、
UTMF完走時に頂いたランニングベスト、そしてUNIQLOのダウンを着込んできた。
(雨の時用にはフリースを用意していたが今回はダウンを使用した)下はランニングタイツと
雨にぬれてもいいように絹のランニングソックスを履いている。
さあ、下りだ。
今までの埼玉側の未舗装と違い、長野側はざっくりと舗装されている。ただし、ところどころに
亀裂や、舗装が破たんしているところもあるので転倒に注意しなければならない。
下りはさらに冷えることを予測して雨具上下を着こんで対応した。
寒さだけではない。眠気と同時に幻影がまた今回も見えだした。
それも今までと違って、そこには絶対に居ないといえるこどもだったり、おじさん、
おばさんだったりした。
山ということもあり、なにか恐ろしげな雰囲気に襲われ、早く夜が明けないかとつらつら
考えたりした。
200kmを過ぎたあたりで毎年私設エイドを出していただいている方がいらっしゃるとの説明を
大会説明会で伺っていたが、実際はその所在はなく、少し気落ちして前へ進むことになった。
とても寒い、とても眠い。歩いている途中で10回以上、立ったまま寝ていた。
はっと気づくと、そこには「今何やっているんだっけ?」と自分に問う私がいた。
進む方角が間違うと、元に戻ってしまうので、山の位置を確認して、進むべき道を確認して
いったのだった。
今となって思い出せば、これはとても怖いことだ。
山なら、滑落して死んでしまうことにもなるし、道路を走る車がないから良いものの、
もしすぐそばを車が通過したら、ぶつかって事故は免れなかったろう。
209km地点、朝9時から夜の9時まで営業しているというナナーズというスーパーの
前で、バンバンクラブの皆さんがエイドを出されていた。2日の4:30になっていた。
この時点で私が持っていた携行食はエネルギーゼリーのみとなっており、温かい味噌汁、
ブランデー紅茶には助けてもらった。
そして、10分ほど暖房で暖まった車で仮眠をとらせていただいて、レースに戻った。
前方正面の遠くに、雲の上に頭を出す八ヶ岳を望む。
その後も眠気からの復活は夜明けからしばらくするまでなく、5:39に信濃川上駅を通過。
道の右手には、千曲川がそよそよと小さな流れを作りつつある。
土手にはいまだつぼみを開いていない5分咲きの桜が咲き並んでいる。
この地区の気温の低さを物語っているのか、自然の摂理は偉大だ。
215kmの樋沢を過ぎたあたりで、JR小海線を横切る。
小海線は、日本で最も標高の高いところを走る線路だ。
CP11南牧村市場交差点には6:54到着。
エネルギージェルとあめで腹ごしらえし、先を急ぐ。
しかし、全く足が出ない。進まない。
前回との大きな違いは、けらないである程度のスピードが保てたが、今回はそれが全くないことだ。
230km地点少し前。8:02にバンバンクラブが開いてくれているエイドでけんちんうどんと
いなり寿司、おにぎりをいただく。
コーヒーで眠気を覚まし、お礼を申し上げ、再度コースに戻る。
何度もなんども苦しいときに助けてくれるのがこういった私設エイドだ。
周りにはコンビニなど調達施設が全くない。時間の関係で開いていないのではない。
存在しないのだ。
そんな区間が多くあり、その間に、砂漠の中のオアシスよろしく私設エイドを設けていただいている。
小海町に入った。9:06。
千曲川をまたいで鯉のぼりが寒い北風にあおられて優雅に泳いでいる。
その優雅さとは対照的に私の心は荒んでいた。
会社を休みをもらって出場をしたレース。
なんとしても時間内完走したい。
脚の痛みはなんとでもなる。
時間はぎりぎりだが、これから無駄な時間を使わなければなんとかなる可能性はある。
次のレストポイントである津南町の鹿渡館での制限時間はなんとか滑り込めるだろう。
でも、でも・・・。
どうしてもふっきれないことがあった。
それは、なかなか前へ進めないフラストレーションと、三国峠の上りから出始めた腸の異常な
活動とガスの発生、そして連続する下痢だ。
下痢止め薬は残念ながら持っていない。出場前に用意しようとは思ったが、結果的に
持ってこなかった。
だましだましCP12,257km地点、長土呂東交差点に到着。
すき家でやきそば牛丼大盛を食べて、ゆっくりしていたら15:40になっていた。
自分の今回の最後の走りになると想定するCP13までの8kmを最後の力を振り絞って
走り始めた。
今まで歩き半分、ラン半分だったが、9割は走って5時までにゴールできるよう腕を
しっかり振って足を前へ置いていく。走るという感じではない。
まさに足を置いていくという感じだ。
やっとのことでたどりついたCP13,小諸グランドキャッスルホテル。264.7km地点。
2日17:04着。
56時間4分。平均時速4.7km。
宿について真っ先におこなったのは、帰りの電車が家までたどり着ける状況かどうかだった。
諸般の事情によりリタイア・帰宅を余儀なくされた。
風呂に入り汗を流し、19:04に小諸駅を出て佐久平に19分着、そして
19:34発長野新幹線あさまの車窓の人となり、家路のついた。
家にたどり着いて2日が経とうとしている。
痛むところは故障個所2つと左右ふくらはぎだ。
ふくらはぎの筋肉が痛むのは、走り方が小さく、ひざの下だけを使って走っているからだ。
長い距離を走る(歩く)には、絶対やってはならない走りかただ。
胃腸は通常の状態に戻った。
体重は帰宅後夕食をたくさん食べた状態で70kgちょうど、体脂肪は9.9%となっていた。
出場前は67kg、体脂肪12-13%あったので、食べる以上に体脂肪を使ってエネルギーに
かえていたことがうかがい知れる。
シューズはといえば、→左足くるぶしの部分に大きな穴が開き、両かかとの部分にも亀裂が
入った。
これはレースの厳しさというよりは、走り方に問題があるのだろう。
上半身にはなんら問題は残っていない。
足の指は、両足とも3枚ずつ爪が死んでしまった。
これも足のつき方、運び方に問題があるからだ。
気象条件に合わせた体つくりも大切に感じた。
三国峠で出会ったランナーは、どうみても私ほど厚着をしている人は見かけなかった。
走って発生される熱量をうまく体温維持に使い、背負う荷物を減らすことで走るポテンシャルを
上げているのだろう。
荷物も大量に持っていきすぎたかもしれない。
最小限の荷物は走る能力に差をつける。たとえ1gでも軽ければ、それは体に与えるダメージ、
負荷を減らすことになる。
ただし、走る時の危険と隣り合わせであり、自分の身を守るための装備、携行飲食物との
バーターとなることだけはよくよく考慮する必要がある。
三国峠に上り始めたころを中心に、ラン仲間からメールが着信する音がなっているのは
わかっていたが、寒さと疲れでとても読む気がしなかった。
レース終盤でメールを確認したが、皆さんから頂いたメールには本当に勇気つけられた。
そして、仲間をもった喜びに胸が熱くなった。
家族からは何度もメールが入った。
小諸でのリタイアを知らせるメールを入れると、埼玉から小諸まで迎えに行くという。
こういう厳しい状況下でのこの温かい言葉にも心の底から感謝し、けがもせず、事故にも
あわず、健康状態もほぼ通常の状態で戻ってこれたことも自信にはなった。
今はただ、ゆっくりと休みたい、そう思うだけだが、小諸キャッスルホテルを去る時に
大会副実行委員長の柳沢さんからかけられた、
「森田さん、この大会のリベンジはどこでするの?」
という問いに、一呼吸おいてこうお答えした。
「奥武蔵ウルトラマラソンです。」
本当は「川の道でリベンジします」
そういいたかったが、今の自分の走力、気持ちの持ち方、トレーニングの方法の改善、
気象条件への対応、装備の綿密な検討と事前の試験的使用なくしては絶対にこの
川の道520kmに出てはいけないと感じたのだ。
それくらい私にとってはとてつもなく高い目標となり、乗り越えなければならない自己満足の
集大成となる大会として自分の中で位置付けられた。
いい機会なので、自分の52年の生涯を振り返り、自分を見つめて前へ進む力を見出そう。
そして、走る力を生きる力に替えて、力いっぱい生きて行こう。
そんな機会を作ってくれた、私にとって人生の転機となるようなレース、
それが今回の「川の道フットレース」でした。
以上。
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