知多半島一周ウルトラ遠足(とおあし)完走レポート
「これからは僕のことを金メダリストの夜久と呼んで下さいね。」
3月のとある日、私が尊敬するウルトラの師匠である夜久さんの事務所をふらりと訪れた際、ご本人からこう言われた。
私が、「どうしてですか?」と伺うと、夜久さんは、
「いやー、実は4月末に行なわれる知多半島一周ウルトラ遠足というレースがあってね、それに出た人には全て名入りの金メダルがもらえるんだよ。だから僕は金メダリストというわけですよ。森田さんも金メダリストにならない?」
この言葉を聞いてからこの大会のことが気になっていた。しかし、その前に行なわれる鶴沼ウルトラマラソン100kmもあるし、GWに出たかった川の道フットレース520kmを断念してまでエントリーしたウルトラトレイルマウントフジ(UTMF)160kmも5月にあるし、今年は行けないなあ・・・と考えていた。
しかし、3月11日、あの東北大震災のあと、エントリーしていた3月21日の多摩リバーサイド駅伝、4月3日の鶴沼ウルトラマラソン、5月20-22日のUTMFが全て中止、延期となり、目標が無くなった為、練習もせず、ぼーっとした日々を送っていた。
たまたまランナー仲間から送られてきたRUN×10(ランバイテン、1km走る毎に10円被災地に寄付するというもの)をまねて、RUN×20を始めて気持が前向きになってきた。
そして、そのとき思ったのが、どこか今からでもエントリーできる大会はないかということで思い出したのがこの知多半島一周ウルトラ遠足だった。
早速ランネットでエントリー。レース翌日の月曜に出社の必要があるため、当日中に自宅に帰宅できるよう80kmの部にエントリーした。エントリー代8000円也。
とてつもない安さだ。ちなみに、100kmの部は9000円、70kmの部は7000円と普通のウルトラの半分程度のエントリー代だ。その上、名入り完走金メダル付き!
3月末の決算、そして4月の期初の忙しさはあったが、先に述べたRUN×20とこのレースへの準備ということで走りに賭ける気持も強くなってきた。そして距離を積んで当日を迎えることとなった。
4月23日土曜日、すこし早めに家を出た私は名古屋の得意先を訪問した後、名鉄名古屋から電車を乗り継いで知多半島の根元にある常滑駅に15時過ぎに着いた。改札を左手に出て、線路沿いに左手に進み、徒歩3分のところにある、じゃらんネットで予約したホテルルートイン常滑駅前にチェックインする。私の前にもランナーらしき人が2人歩いていたので、おそらく多くの大会参加者がこのレースに出るため宿泊しているのだろう。
部屋に荷物を入れてすぐに、エントリー会場であるホテルAUに向かう。駅の正反対側にある会場まで5分、街の雰囲気を噛み締めながら歩いていく。左手にはINAXの大きなビルが聳え立っている。名古屋から特急で35分ほどの距離だが、都会の喧騒は無く、静かなたたずまいだ。
3時半前にホテルAU内に設置されたエントリー場所で名前を告げ、ゼッケンを頂く。ゼッケンには「貴方の情熱と栄光を称えます、第5回知多半島一周ウルトラ遠足」という文字と、青で「10」というナンバーが記載されている。80kmの部は何人がエントリーしているのか不明だが、きっと少ないと思われる。
全ての競技にエントリーした参加者は380人ほどとマイナーな感じは否めない。一方でエントリーする一人ひとりに名前を呼んで声をかけてくれるその温かさに何か良い感じを受ける。参加賞のTシャツを頂き、ホテルのソファーで一服する。その後、既にこのホテルにチェックインしている夜久さんに連絡し、明日のレースのことや近況について話していたら17時となり、ウェルカムパーティを兼ねたレース&コース説明会が行なわれることとなった。
大会委員長の川崎五郎さんが会場であるホテルのビュッフェに現れ、大まかなコースの説明と注意点の報告がなされた。会場には100名弱の参加者が集まっていたが、顔見知りだったのは日医ジョガーズの小嵐先生くらいだけだった。普段ウルトラの大会に出向くと、顔見知りに出くわすことも多いのだが、今回は違っていた。きっと今まで出てきた大会とは違った様相の大会なのかも知れない、そう思った。
よくサロマ湖ウルトラマラソンは「ウルトラの小学校一年生」などと呼ばれ、人気も参加者も走り易さも含めてこういった呼称が使われることもあるが、この大会は実行委員会のパンフを見ると「耐久ウルトラの登竜門」と記載されており、サロマ湖が小学校一年生ならこちらは「ウルトラの幼稚園」といった感じだろうか。これにはなんといっても100km、80km、70kmとも17時間というウルトラで最も長い制限時間を設けており、ほとんど歩いていてもなんとかゴールできる、そんなゆるいレースに仕上がっている。ちなみに50km、40kmの部もあり、こちらも12時間という非常にゆるい制限時間となっている。フルマラソンやミニウルトラマラソンに挑戦するのにも良い機会となる大会となっている。
ウェルカムパーティは1時間弱で終わり、夜久さんと私は、明日に備えてきちんと食事を摂ろうと常滑の街に繰り出した。といっても駅の周りには飲食店もほとんどなく途方にくれていたところ、たまたま駅前でお話されていた地元の方にこの近くで地元の美味しいものが食べられる居酒屋さんはないですかと尋ねたところ、「ああ、おれが毎日行っている古窯庵という店が近くにあるから行ってみな、旨いよ。店に行ったらしんちゃんの紹介だといってよ。」とのこと。駅から徒歩3分ほどのところにある古窯庵さんに到着。6時少し過ぎたところでまだお客さんはまばらだったが、雰囲気の良い清潔な店内、元気のいい従業員さん、そして気風のよさげな大将で期待は膨らむ。
「しんちゃんの紹介で来ました。」と大将にお伝えしたところ、「ああ、いつも来ていただいているんですよ。飲みに来ない日も毎日。新聞を配達していただいているんです。」とのこと。出てきた料理は確かに美味しく、ジョッキに注がれたビールもどんどん美味しく飲めて行ってしまったが、明日のレースのことを思い、2杯で止めた。最後に仕上げのおにぎりを頂き、おなか一杯になりおあいそしようと思ったら、夜久さんにご馳走してもらってしまった。感謝!
ちなみに、古窯ということばは、日本6大古窯のひとつ、常滑焼からとったとのこと。勉強になる。
夜久さんと明日の健闘を称えわかれた後、駅下にあるスーパーで、明日の朝食となる弁当と味噌汁を購入し、ホテルに戻り、明日着るTシャツにナンバーカードを安全ピンで取り付け、身に付けるものの最終点検をして10時過ぎにベッドに入った。レース前はいつもなら1時間くらい眠れず、寝返りを何度もうってやっと眠れるのですが、今回はすぅーっと眠れた。
朝3:55にかけた目覚ましで起床。ここのところこだわっている55=Go,Go!の縁起を担いでこの時間に起きる。弁当と味噌汁を食べ、歯を磨いた後、身支度を始める。体の摩擦から皮膚を守るプロテクト1をわき腹、肩、足に擦り込み、乳首にはバンドエイドを貼り、長時間にわたるレースから身を守る手はずを整える。
マラソンキャップの下に帽子ネックウォーマーにもなるマジックキャップを首筋に垂らし太陽光から首筋を守る工夫をした。Tシャツは明走会の蛍光黄色の速乾性のもの、そしてアシックスのスパッツとCEPのハイソックスで足元を固め、更には前日まで穿くのをどうしようかと思案していたNEWTONのアイザックに足を入れた。このシューズはフォアフットで走るもので、初めてのレースは昨年のつくばマラソンだったが、ある程度の筋力を要求するシューズのようで、レースは惨敗であった。それではなぜ今回、このシューズを選択したのか?ウルトラ用に購入したアシックスGELカヤノ16は重く、クッション性は良く脚へのダメージは少ないと思われたが、如何せんこの重さが災いすると思ったのだ。もう一足の候補はアディダスのアディゼロAge2。これは至って軽いが、30km以上走って試したことがなく、候補から外れた。最後に残ったのがニュートン。このアイザックはLSDトレーニング用に作られたもので長い距離をゆっくり走るのには向いている。また、うまく使えば自分の走力を増してくれる、そんなシューズだ。
スタートは5時。その地点のホテルAUに向けて4:30にチェックアウトする。もちろんまだ夜は明けていない。ホテルのロビーで夜久さん、小嵐さんと会い、お互いの完走を祈念する。4:55に出走者全員がホテルを出て信号を渡り、今年のスタート地点に三々五々集結する。いつもながら思うのは、ウルトラに参加する人のたたずまいは、なぜか哲学者のような雰囲気が漂うということだ。泰然自若というか、ぎらぎらした「勝ってやろう」的な雰囲気をかもし出す人は極少数だ。それぞれがこれから始まる長丁場のことを思い、心を平静にしてスタートの時を待つ。
5:00スタート。15kmまで先導する先導車に付いて行くかのようなスパートをする人は少なく、皆それぞれのスピードで出発する。常滑競艇場の裏側を通り、一路海岸線に向けて南に進路をとる。県道252号線を南下し、3km地点あたりから右手に海を見ながら歩を進めていく。漆黒からブルーモーメント(朝と晩、太陽が上がる前と沈んだ直後の5分間、空がブルーに彩られる時間を言う)、そして夜明け前の時間を使い、南下をしていく。途中、ソニーの元社長の盛田さんの実家の、あの日本酒「ねのひ」で有名な造り酒屋盛田の工場やレストランを通り過ぎる。平坦な道を淡々と走る。
脚は別段問題はないが、トイレにどうしても行きたくなってきた。9kmの坂井海水浴場に公衆トイレがあると聞いたが、そこまで間に合いそうにない。また、地図も持たず、コース上に距離表示もないためここがどこなのかわからず、走るスピードを極端にゆっくりさせながら、コース近くにあるトイレを探す。と、8km地点くらいのところ左手に、海産物の産直販売コーナーの便所が見つかり、なんとかセーフ。
10km地点、最初のエイドには5:59到着、スポーツドリンクを1杯頂き、即スタートする。走り始めて1時間、体は温まってきたが、外気温はまだ低く、止まると寒さを感じる。今回も出来るだけエイドに長居しないというのが作戦だ。3分以内にエイドを出ることで、体に休み癖をつけさせないで最後までコンスタントに走るという形をとり、9時間以内でゴールするというものだ。
10km地点から300mほど走り、上野間の交差点を左折し、国道247号線に出る。ここからは折り返し地点までひたすらまっすぐだ。海沿いから内陸に入り、まったいらな道を7kmほど進むと、富具崎港を過ぎ、海のそばに聳え立つ野間の灯台に到達する。海沿いの道を進むため、若干の上り下りと前方あるいは右手からの強い海風に悪戦苦闘する。
第二エイド20km地点には7:01に到着。10km/1時間という理想のペースで進んでいる。ここでは給食にバナナ、いなりずしなどがあったが、何も頂かずスポーツドリンクを2杯飲み、即出発した。
小野浦は聖書和訳の地という碑が道中にあったのを見てWEBで調べると、小野浦出身の音吉、久吉、岩吉という3人が廻船で途中難破し、14ヶ月の漂流の後、米国に流れ着き、インディアンに助けられた後、イギリス人によってロンドンに連れて行かれ、日本との開国の交渉に3人を使おうと思ったが本国は日本との交渉に熱心ではなかったため、マカオに送られ、そこで聖書の日本語訳をすることになったとのこと。ちなみに、3人は米国人の計らいで日本に帰国を果たそうとするが、浦賀沖に到着したときに日本からの砲撃にあい、止む無くマカオに引き返すことになったとのこと。
第3エイドは25km地点。7:24到着。体の調子はいい。このまま淡々と進もう。山海海水浴場、豊浜漁港を過ぎ、豊浜港をぐるっと廻り、南知多温泉、そして知多半島の最南端の町、師崎を過ぎる。
8:24に第4エイドに到着、35km地点。バナナ、チョコ、おにぎりがあったが、お茶を頂き、2本携帯しているペットボトルの1本にお茶を補給してスタートする。
ここから5kmは風が今までで最も強いところだった。日差しは強くなっており、気温も高くなっているが、風が強く、肌寒い感じがする。汗はすぐ乾き、塩が体から奪われている感じだ。
第5エイド40km地点には8:56到着。ここまでかかった時間は3:56。40kmをこの時間なら出来すぎだ。飲み物を頂き、先を急ぐ。
折り返すと、前方から来る、これからそれぞれの折り返し地点に進む人たちに出会う。9:20には師匠夜久さんと出合い、お互いの健闘を称えあった。夜久さんは既にTシャツが体から出た塩で真っ白になっていてご苦労の程がうかがい知れる。
9:24、第6エイド、45km地点に到着。バナナを頂く。この時点で80kmの順位は1位と知らされる。えーっ、マジ!という感じ。
10:34、第7エイド、55km地点に到着。10km/1時間を守っている。脚も動いている。なんともいえない至福のひと時を感じていた。前に走る人が一人もいないという感激を。
11:14、第8エイド、60km地点に到着。おにぎりを頂く。実はこのエイドの2kmほど手前で、いつもの塩切れの状態となり、脚が前に出なくなっていた。ところが今回のエイドではあるといわれていた塩がどこにもおいていないのだった。ウルトラの際はスポーツソルトを携帯して走ることを旨としているが、今回はそれを持ってきていない。しかたなく道路わきにある和菓子屋さんに飛び込み、状況を説明し食塩をいただけないかと相談したところ、どうぞと一塊の塩を頂き、そこから力が湧いてきて、一歩一歩と前へ進むきっかけとなった。
12:37第9エイド到着。この10kmは長かった。1時間20分かけての10kmだった。行きに向かい風、右からの風だった風向きが変わり、前方から、あるいは左手から吹く感じになっていた。第8エイドを出てすぐのところで80kmの部の人に抜かれたのも元気がなくなった原因かもしれない。とにかく脚が前へ出ない。今回も写真を撮影しながらのレースだったが、ほとんど撮影できないくらい疲れてしまっていた。セントレア中部国際空港から飛び立つ飛行機を眺めながら、早くゴールにたどり着きたい、ただひたすらそう思った。
第9エイド70km地点の手前で、どうも雰囲気が違う感じを持っていた。それは、往きに通った道と違うのではという感じだ。道を間違えると、間違えたところまで引き返し、そこからまた走らなければならない。お土産屋さんで「ここを通り過ぎたランナーはいらっしゃいませんか?」と尋ねる。お店の方は、「2人連れのランナーが行きましたよ」と仰った。しばらく走ると、後から来た車から、「道が間違ってますよ。この先を左折してオリジナルのコースに戻ってください。そしてコースのエイドに寄って行ってください。」とのこと。ありがたい。このまま行けば、エイド=チェックポイントでの未通過となり、失格となるところだった。少々遠回りしてコースに戻り、バナナを頂き、給水していると、80kmの部のランナーが2名来られた。前に1名、この2名に抜かれると、私は4位。入賞はなくなると思い、そそくさとエイドを後にして先に進んでいく。後を振り向くと、きっとそこにはランナーがいて、抜かれるという恐怖感からか、前だけ見て力が衰えつつある脚に喝を入れて進んでいく。
最後の20km以降、脚が前に出なくなったため、走り方を意識的に変えてみた。歩幅を小さくして、Newtonの特性である、フォアフットで着地して作用反作用で推進力に変える力を使うことにした。これが功を奏して、小さな歩幅でリズミカルに進んでいった。
そうこうしているうちに常滑市内に入り、3km先常滑競艇場という看板が見えてきた。ああ、帰ってきたという気持で体が満たされ、最後まで歩かずしっかり走ることを心がけた。
13:51:07常滑駅の高架をくぐりホテルAU前のゴール地点に到達。80kmに要した時間は8時間51分7秒。40代の部優勝、80km総合の部2位というものだった。まもなく50歳を迎える私は、今までスポーツで優勝など一度もしたこともない運動音痴だった。それがエントリーした人数は少ないとはいえ1位になったこと、そして部門でも2位に入ったことで久々ぶりに感無量となった。やれば出来る、そんな瞬間だった。
実行委員会の人が手書きでタイムを書いてくれた賞状と優勝メダル、参加賞である金メダルを手に写真を撮ってもらい、レースの余韻に浸っていた。
実行委員長の川崎さんから、ホテルのB1Fでマッサージをやってくれるよというご案内を頂き、川崎さんの友人の整体・マッサージ師である方から入念にマッサージを受け、3時からホテルで入浴し、常滑を16時に発ち家路に着いた。
様々な大会に参加してきたが、きっとこれほどゆるい、手作り感のある大会はないと思う。
大会関係者の皆さんのおもてなしを心に感謝しながら、出来れば来年も50代の部で優勝を狙いたいと思う。
3月のとある日、私が尊敬するウルトラの師匠である夜久さんの事務所をふらりと訪れた際、ご本人からこう言われた。
私が、「どうしてですか?」と伺うと、夜久さんは、
「いやー、実は4月末に行なわれる知多半島一周ウルトラ遠足というレースがあってね、それに出た人には全て名入りの金メダルがもらえるんだよ。だから僕は金メダリストというわけですよ。森田さんも金メダリストにならない?」
この言葉を聞いてからこの大会のことが気になっていた。しかし、その前に行なわれる鶴沼ウルトラマラソン100kmもあるし、GWに出たかった川の道フットレース520kmを断念してまでエントリーしたウルトラトレイルマウントフジ(UTMF)160kmも5月にあるし、今年は行けないなあ・・・と考えていた。
しかし、3月11日、あの東北大震災のあと、エントリーしていた3月21日の多摩リバーサイド駅伝、4月3日の鶴沼ウルトラマラソン、5月20-22日のUTMFが全て中止、延期となり、目標が無くなった為、練習もせず、ぼーっとした日々を送っていた。
たまたまランナー仲間から送られてきたRUN×10(ランバイテン、1km走る毎に10円被災地に寄付するというもの)をまねて、RUN×20を始めて気持が前向きになってきた。
そして、そのとき思ったのが、どこか今からでもエントリーできる大会はないかということで思い出したのがこの知多半島一周ウルトラ遠足だった。
早速ランネットでエントリー。レース翌日の月曜に出社の必要があるため、当日中に自宅に帰宅できるよう80kmの部にエントリーした。エントリー代8000円也。
とてつもない安さだ。ちなみに、100kmの部は9000円、70kmの部は7000円と普通のウルトラの半分程度のエントリー代だ。その上、名入り完走金メダル付き!
3月末の決算、そして4月の期初の忙しさはあったが、先に述べたRUN×20とこのレースへの準備ということで走りに賭ける気持も強くなってきた。そして距離を積んで当日を迎えることとなった。
4月23日土曜日、すこし早めに家を出た私は名古屋の得意先を訪問した後、名鉄名古屋から電車を乗り継いで知多半島の根元にある常滑駅に15時過ぎに着いた。改札を左手に出て、線路沿いに左手に進み、徒歩3分のところにある、じゃらんネットで予約したホテルルートイン常滑駅前にチェックインする。私の前にもランナーらしき人が2人歩いていたので、おそらく多くの大会参加者がこのレースに出るため宿泊しているのだろう。
部屋に荷物を入れてすぐに、エントリー会場であるホテルAUに向かう。駅の正反対側にある会場まで5分、街の雰囲気を噛み締めながら歩いていく。左手にはINAXの大きなビルが聳え立っている。名古屋から特急で35分ほどの距離だが、都会の喧騒は無く、静かなたたずまいだ。
3時半前にホテルAU内に設置されたエントリー場所で名前を告げ、ゼッケンを頂く。ゼッケンには「貴方の情熱と栄光を称えます、第5回知多半島一周ウルトラ遠足」という文字と、青で「10」というナンバーが記載されている。80kmの部は何人がエントリーしているのか不明だが、きっと少ないと思われる。
全ての競技にエントリーした参加者は380人ほどとマイナーな感じは否めない。一方でエントリーする一人ひとりに名前を呼んで声をかけてくれるその温かさに何か良い感じを受ける。参加賞のTシャツを頂き、ホテルのソファーで一服する。その後、既にこのホテルにチェックインしている夜久さんに連絡し、明日のレースのことや近況について話していたら17時となり、ウェルカムパーティを兼ねたレース&コース説明会が行なわれることとなった。
大会委員長の川崎五郎さんが会場であるホテルのビュッフェに現れ、大まかなコースの説明と注意点の報告がなされた。会場には100名弱の参加者が集まっていたが、顔見知りだったのは日医ジョガーズの小嵐先生くらいだけだった。普段ウルトラの大会に出向くと、顔見知りに出くわすことも多いのだが、今回は違っていた。きっと今まで出てきた大会とは違った様相の大会なのかも知れない、そう思った。
よくサロマ湖ウルトラマラソンは「ウルトラの小学校一年生」などと呼ばれ、人気も参加者も走り易さも含めてこういった呼称が使われることもあるが、この大会は実行委員会のパンフを見ると「耐久ウルトラの登竜門」と記載されており、サロマ湖が小学校一年生ならこちらは「ウルトラの幼稚園」といった感じだろうか。これにはなんといっても100km、80km、70kmとも17時間というウルトラで最も長い制限時間を設けており、ほとんど歩いていてもなんとかゴールできる、そんなゆるいレースに仕上がっている。ちなみに50km、40kmの部もあり、こちらも12時間という非常にゆるい制限時間となっている。フルマラソンやミニウルトラマラソンに挑戦するのにも良い機会となる大会となっている。
ウェルカムパーティは1時間弱で終わり、夜久さんと私は、明日に備えてきちんと食事を摂ろうと常滑の街に繰り出した。といっても駅の周りには飲食店もほとんどなく途方にくれていたところ、たまたま駅前でお話されていた地元の方にこの近くで地元の美味しいものが食べられる居酒屋さんはないですかと尋ねたところ、「ああ、おれが毎日行っている古窯庵という店が近くにあるから行ってみな、旨いよ。店に行ったらしんちゃんの紹介だといってよ。」とのこと。駅から徒歩3分ほどのところにある古窯庵さんに到着。6時少し過ぎたところでまだお客さんはまばらだったが、雰囲気の良い清潔な店内、元気のいい従業員さん、そして気風のよさげな大将で期待は膨らむ。
「しんちゃんの紹介で来ました。」と大将にお伝えしたところ、「ああ、いつも来ていただいているんですよ。飲みに来ない日も毎日。新聞を配達していただいているんです。」とのこと。出てきた料理は確かに美味しく、ジョッキに注がれたビールもどんどん美味しく飲めて行ってしまったが、明日のレースのことを思い、2杯で止めた。最後に仕上げのおにぎりを頂き、おなか一杯になりおあいそしようと思ったら、夜久さんにご馳走してもらってしまった。感謝!
ちなみに、古窯ということばは、日本6大古窯のひとつ、常滑焼からとったとのこと。勉強になる。
夜久さんと明日の健闘を称えわかれた後、駅下にあるスーパーで、明日の朝食となる弁当と味噌汁を購入し、ホテルに戻り、明日着るTシャツにナンバーカードを安全ピンで取り付け、身に付けるものの最終点検をして10時過ぎにベッドに入った。レース前はいつもなら1時間くらい眠れず、寝返りを何度もうってやっと眠れるのですが、今回はすぅーっと眠れた。
朝3:55にかけた目覚ましで起床。ここのところこだわっている55=Go,Go!の縁起を担いでこの時間に起きる。弁当と味噌汁を食べ、歯を磨いた後、身支度を始める。体の摩擦から皮膚を守るプロテクト1をわき腹、肩、足に擦り込み、乳首にはバンドエイドを貼り、長時間にわたるレースから身を守る手はずを整える。
マラソンキャップの下に帽子ネックウォーマーにもなるマジックキャップを首筋に垂らし太陽光から首筋を守る工夫をした。Tシャツは明走会の蛍光黄色の速乾性のもの、そしてアシックスのスパッツとCEPのハイソックスで足元を固め、更には前日まで穿くのをどうしようかと思案していたNEWTONのアイザックに足を入れた。このシューズはフォアフットで走るもので、初めてのレースは昨年のつくばマラソンだったが、ある程度の筋力を要求するシューズのようで、レースは惨敗であった。それではなぜ今回、このシューズを選択したのか?ウルトラ用に購入したアシックスGELカヤノ16は重く、クッション性は良く脚へのダメージは少ないと思われたが、如何せんこの重さが災いすると思ったのだ。もう一足の候補はアディダスのアディゼロAge2。これは至って軽いが、30km以上走って試したことがなく、候補から外れた。最後に残ったのがニュートン。このアイザックはLSDトレーニング用に作られたもので長い距離をゆっくり走るのには向いている。また、うまく使えば自分の走力を増してくれる、そんなシューズだ。
スタートは5時。その地点のホテルAUに向けて4:30にチェックアウトする。もちろんまだ夜は明けていない。ホテルのロビーで夜久さん、小嵐さんと会い、お互いの完走を祈念する。4:55に出走者全員がホテルを出て信号を渡り、今年のスタート地点に三々五々集結する。いつもながら思うのは、ウルトラに参加する人のたたずまいは、なぜか哲学者のような雰囲気が漂うということだ。泰然自若というか、ぎらぎらした「勝ってやろう」的な雰囲気をかもし出す人は極少数だ。それぞれがこれから始まる長丁場のことを思い、心を平静にしてスタートの時を待つ。
5:00スタート。15kmまで先導する先導車に付いて行くかのようなスパートをする人は少なく、皆それぞれのスピードで出発する。常滑競艇場の裏側を通り、一路海岸線に向けて南に進路をとる。県道252号線を南下し、3km地点あたりから右手に海を見ながら歩を進めていく。漆黒からブルーモーメント(朝と晩、太陽が上がる前と沈んだ直後の5分間、空がブルーに彩られる時間を言う)、そして夜明け前の時間を使い、南下をしていく。途中、ソニーの元社長の盛田さんの実家の、あの日本酒「ねのひ」で有名な造り酒屋盛田の工場やレストランを通り過ぎる。平坦な道を淡々と走る。
脚は別段問題はないが、トイレにどうしても行きたくなってきた。9kmの坂井海水浴場に公衆トイレがあると聞いたが、そこまで間に合いそうにない。また、地図も持たず、コース上に距離表示もないためここがどこなのかわからず、走るスピードを極端にゆっくりさせながら、コース近くにあるトイレを探す。と、8km地点くらいのところ左手に、海産物の産直販売コーナーの便所が見つかり、なんとかセーフ。
10km地点、最初のエイドには5:59到着、スポーツドリンクを1杯頂き、即スタートする。走り始めて1時間、体は温まってきたが、外気温はまだ低く、止まると寒さを感じる。今回も出来るだけエイドに長居しないというのが作戦だ。3分以内にエイドを出ることで、体に休み癖をつけさせないで最後までコンスタントに走るという形をとり、9時間以内でゴールするというものだ。
10km地点から300mほど走り、上野間の交差点を左折し、国道247号線に出る。ここからは折り返し地点までひたすらまっすぐだ。海沿いから内陸に入り、まったいらな道を7kmほど進むと、富具崎港を過ぎ、海のそばに聳え立つ野間の灯台に到達する。海沿いの道を進むため、若干の上り下りと前方あるいは右手からの強い海風に悪戦苦闘する。
第二エイド20km地点には7:01に到着。10km/1時間という理想のペースで進んでいる。ここでは給食にバナナ、いなりずしなどがあったが、何も頂かずスポーツドリンクを2杯飲み、即出発した。
小野浦は聖書和訳の地という碑が道中にあったのを見てWEBで調べると、小野浦出身の音吉、久吉、岩吉という3人が廻船で途中難破し、14ヶ月の漂流の後、米国に流れ着き、インディアンに助けられた後、イギリス人によってロンドンに連れて行かれ、日本との開国の交渉に3人を使おうと思ったが本国は日本との交渉に熱心ではなかったため、マカオに送られ、そこで聖書の日本語訳をすることになったとのこと。ちなみに、3人は米国人の計らいで日本に帰国を果たそうとするが、浦賀沖に到着したときに日本からの砲撃にあい、止む無くマカオに引き返すことになったとのこと。
第3エイドは25km地点。7:24到着。体の調子はいい。このまま淡々と進もう。山海海水浴場、豊浜漁港を過ぎ、豊浜港をぐるっと廻り、南知多温泉、そして知多半島の最南端の町、師崎を過ぎる。
8:24に第4エイドに到着、35km地点。バナナ、チョコ、おにぎりがあったが、お茶を頂き、2本携帯しているペットボトルの1本にお茶を補給してスタートする。
ここから5kmは風が今までで最も強いところだった。日差しは強くなっており、気温も高くなっているが、風が強く、肌寒い感じがする。汗はすぐ乾き、塩が体から奪われている感じだ。
第5エイド40km地点には8:56到着。ここまでかかった時間は3:56。40kmをこの時間なら出来すぎだ。飲み物を頂き、先を急ぐ。
折り返すと、前方から来る、これからそれぞれの折り返し地点に進む人たちに出会う。9:20には師匠夜久さんと出合い、お互いの健闘を称えあった。夜久さんは既にTシャツが体から出た塩で真っ白になっていてご苦労の程がうかがい知れる。
9:24、第6エイド、45km地点に到着。バナナを頂く。この時点で80kmの順位は1位と知らされる。えーっ、マジ!という感じ。
10:34、第7エイド、55km地点に到着。10km/1時間を守っている。脚も動いている。なんともいえない至福のひと時を感じていた。前に走る人が一人もいないという感激を。
11:14、第8エイド、60km地点に到着。おにぎりを頂く。実はこのエイドの2kmほど手前で、いつもの塩切れの状態となり、脚が前に出なくなっていた。ところが今回のエイドではあるといわれていた塩がどこにもおいていないのだった。ウルトラの際はスポーツソルトを携帯して走ることを旨としているが、今回はそれを持ってきていない。しかたなく道路わきにある和菓子屋さんに飛び込み、状況を説明し食塩をいただけないかと相談したところ、どうぞと一塊の塩を頂き、そこから力が湧いてきて、一歩一歩と前へ進むきっかけとなった。
12:37第9エイド到着。この10kmは長かった。1時間20分かけての10kmだった。行きに向かい風、右からの風だった風向きが変わり、前方から、あるいは左手から吹く感じになっていた。第8エイドを出てすぐのところで80kmの部の人に抜かれたのも元気がなくなった原因かもしれない。とにかく脚が前へ出ない。今回も写真を撮影しながらのレースだったが、ほとんど撮影できないくらい疲れてしまっていた。セントレア中部国際空港から飛び立つ飛行機を眺めながら、早くゴールにたどり着きたい、ただひたすらそう思った。
第9エイド70km地点の手前で、どうも雰囲気が違う感じを持っていた。それは、往きに通った道と違うのではという感じだ。道を間違えると、間違えたところまで引き返し、そこからまた走らなければならない。お土産屋さんで「ここを通り過ぎたランナーはいらっしゃいませんか?」と尋ねる。お店の方は、「2人連れのランナーが行きましたよ」と仰った。しばらく走ると、後から来た車から、「道が間違ってますよ。この先を左折してオリジナルのコースに戻ってください。そしてコースのエイドに寄って行ってください。」とのこと。ありがたい。このまま行けば、エイド=チェックポイントでの未通過となり、失格となるところだった。少々遠回りしてコースに戻り、バナナを頂き、給水していると、80kmの部のランナーが2名来られた。前に1名、この2名に抜かれると、私は4位。入賞はなくなると思い、そそくさとエイドを後にして先に進んでいく。後を振り向くと、きっとそこにはランナーがいて、抜かれるという恐怖感からか、前だけ見て力が衰えつつある脚に喝を入れて進んでいく。
最後の20km以降、脚が前に出なくなったため、走り方を意識的に変えてみた。歩幅を小さくして、Newtonの特性である、フォアフットで着地して作用反作用で推進力に変える力を使うことにした。これが功を奏して、小さな歩幅でリズミカルに進んでいった。
そうこうしているうちに常滑市内に入り、3km先常滑競艇場という看板が見えてきた。ああ、帰ってきたという気持で体が満たされ、最後まで歩かずしっかり走ることを心がけた。
13:51:07常滑駅の高架をくぐりホテルAU前のゴール地点に到達。80kmに要した時間は8時間51分7秒。40代の部優勝、80km総合の部2位というものだった。まもなく50歳を迎える私は、今までスポーツで優勝など一度もしたこともない運動音痴だった。それがエントリーした人数は少ないとはいえ1位になったこと、そして部門でも2位に入ったことで久々ぶりに感無量となった。やれば出来る、そんな瞬間だった。
実行委員会の人が手書きでタイムを書いてくれた賞状と優勝メダル、参加賞である金メダルを手に写真を撮ってもらい、レースの余韻に浸っていた。
実行委員長の川崎さんから、ホテルのB1Fでマッサージをやってくれるよというご案内を頂き、川崎さんの友人の整体・マッサージ師である方から入念にマッサージを受け、3時からホテルで入浴し、常滑を16時に発ち家路に着いた。
様々な大会に参加してきたが、きっとこれほどゆるい、手作り感のある大会はないと思う。
大会関係者の皆さんのおもてなしを心に感謝しながら、出来れば来年も50代の部で優勝を狙いたいと思う。
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